作文、その2ヵ月後

夏休みの作文講座で、まだここに掲載していないテーマが一つだけあった。2ヶ月を経て読み返してみると、提出された当時とまた異なる印象・見方がこれらの作文に見えてくる。

■A・R(中3)

第三十九講の中で森先生は、では今日一日の仕事を、予定通りに仕上げるには、一体どうしたらよいでしょうか。それにはまず、短い時間をむだにしないということでしょう。とおっしゃっている。

私はこの文章を読んでとても納得した。受験生の夏休みというものは、ほとんどの人が部活を引退して、自由にできる時間が多い。仮に、一日一時間ゲームをしている人と、その一時間を惜しんで勉強をしている人がいる。夏休みを四十日だとすると、たったの一時間が積み重なるだけで、四十時間もの差が出る。この四十時間で英単語を何個覚えられるだろうか。偏差値はどれくらい上がるのだろうか。よく見かける進学塾のチラシで、この夏で差がつく、と書いてあるがまさにこのことを言っていると思う。一日に二十四時間しかないのは皆同じなので、この限られている時間を上手く活用したい。

→この作文の提出日が8月25日で、第1回のお金のセミナーから約2週間経ったタイミングである。文中の「毎日1時間の勉強×40日=40時間の差がつく」。この考え方は、セミナーの中で講師の山野邊先生(税理士・不動産鑑定士)が語られた内容に通じる。ということは、外から何かしらの影響を受けて自分の中に取り込み、消化してからこういった文章の形でアウトプットする、というまさに学習(Learning)の成果といえるのではないか。

■T・Y(中3)

およそ人間というものは、できるかできないかは、生涯をかけてやってみなければ分かるものではないのです。ですから、できるかできないかは、一生の最期に至って初めて分かるわけです。
と森信三先生は記している。

人間には、出来ない事がある。だが、反対に出来ない事を努力して、出来ることに変えていけるのも人間だと思う。だからこそ、私はどんなこともあきらめたくない。それは、部活動や勉強で、最初にはまったく出来なかった事も、出来る事になったという経験があるからだ。また、それが沢山の事をする上で私の自信になっているからである。私には夢がある。これからその夢に向かっていく時、出来ない事の方が確実に多いだろう。だが、森信三先生は、生涯をかけてやってみなければ分からないとおっしゃるのだ。生涯をかけて、夢を出来る事にしていく。その様に考えると、出来ない事も苦ではなくなる気がする。

→「その様に考えると、出来ない事も苦ではなくなる気がする」・・・この結び方のセンスの良さは、おそらく先天的のものだろう。詩的な書き方が上手いので、実業というよりも何か夢を扱うような仕事に将来ポンと入り込めないだろうかと私は願っている。

■H・K(高3)

第二十二講の中で森先生は、自ら進んでこれをやる時、そこには言い知れぬ力が内に湧いてくるものです。と読者に伝えている。つまり、物事に対して五年後、十年後へと次第に身につき出すとおっしゃっている。

この分を読み私はあることを思い出した。普段から靴を揃えるという習慣についてだ。塾や家の玄関で靴やスリッパを揃えているが自分のだけでなく、他人の靴が少しずれていたら揃える習慣を身につけている。これは、たとえ誰一人見ていなくても自分にとって五年・十年後へと何かとなって身につくと思う。まさにこのことだ。更に勉強においても自らわからない問題を先生に積極的に聞く、何度も繰り返し練習することが出来る人間も将来自分にとって身につくだろう。私達学生は今の内から自ら進んで物事に取り組むことが大切だ。それはごみが落ちているから拾うなど小さな出来事でも良いと思う。何事も自ら進んで取り組めるように更に成長させたい。

→「他人の靴が少しずれていたら揃える習慣を身につけている」こういうことを細かいとか、こだわり過ぎとか、そういう下らないことを言ってくる人間がいるのだけれども、それなら例えば今日の給食の牛乳に牛の毛一本入っていたか?っていう話で、そんなことはない、どの牛乳を飲んでも牛の毛一本入っていないくらいにきれいに精製されているのである。ということは一事が万事、世の中は「完璧な仕事」の集合で出来ているので、信号機ひとつ見てもたった1秒の誤表示さえまず起こり得ないのだ。

そう考えた時に、若いうちから細かいことをきちんとしておく習慣をつけておくと、それが将来の二流・三流でない、一流の仕事に直結するし、また細かくするということは自分の注意力も身につくし、そもそも自分に厳しくないと出来ないことだから自分自身の精神修養にもなるのだ。

ということで作文としては読みにくい所もあるが、書いていることは極めて真っ当である。

■W・H(中3)

「人間は批評的態度にとどまっている間はその人がまだ真に人生の苦労をしていない何よりの証拠だとも言えましょう。真に人を教えるというには、自ら自己の欠点をなくした人・なくそうと努力している人に、初めてできることでしょう。」と森先生はおっしゃっている。

私はつい、苦笑いをしてしまった。なぜなら、こうした状況を部活動の中で、よく見ているからだ。そして、その状況に対して、私自身同じように感じていた。例えば、なかなか技術が上がらない後輩を別室で怒るような先輩がいる。それに対して、その時間内で技術向上のために教える先輩もいる。この二者には大きな違いがある。怒る人はたいてい練習不足、教える人は毎日精一杯練習している。私は部活動で全体の指導をする係についている。だからこそ、私は後者の方になりたいと思う。そのために、今後の大会にむけて、まずは私自身が努力して技術を上げようと思う。

→本引用は『修身教授録』の中でピックアップすべき文章のひとつ。こういう観察眼は大事。
自分が向上の途についているのであれば、他人をあれこれ言っている余裕はないはずだし、苦労をしている人間はその先の登るべき山があることを分かっているからから、自ずと謙虚になる。

■A・Y(高2)

常に自己の力のありったけを出して、努力を積み上げていく。そこで真面目とは、その努力において、常に「百二十点主義」に立つということだと森信三先生は記している。

私は何事においても百点分の力ですら出していないと感じる。テストではもう少し前から問題集を解いていたら、ノートを自分で分かるようにまとめ直していたら、と答案返却の度に後悔する。次のテストは頑張ろう、今回より点数上げるぞと意気込むだけで、実際は毎回同じことを繰り返しているのだ。意志が弱く、ただ思っているだけで行動には移さない。こんな中途半端な自分が情けないと思った。しかし、この森信三先生の「百二十点主義」というお言葉に、これから自分を変えなさいと言われている気がした。私は今までの自分と向き合い、これからどうしたら良いかを考えながら、常に百二十点の力を出すことを心がけて生活していこうと思う。

→A・Yさんは2ヶ月経った今、この作文で書いたことの今現在の検証をすべきだ。それはA・Yさんが今頑張っているとか頑張っていないとかではなく、過去に自分で書いた言葉の検証を自身でし、2ヶ月前の言葉が自分にとってどれだけ真実であったか、それとも単なる飾りであったかを検証することはA・Yさんの進化にとって多大な影響をおよぼすことは間違いない。

文章は書きっぱなしではなく、時間が経って読み返し、検証をすることで、これから発する言葉がより真実に近づいていく。運動会のキャッチコピー「みんなで力をあわせて頑張ろう」みたいな上っ面の生ぬるい言葉が自分の中から消えていくはずだ。

■N・K(中3)

しかし人間も、読書をしなくなったら、それは死に瀕した病人が、もはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神はすでに死んでいる証拠です。この文章は私を驚愕、そして納得させる言葉でもあった。

私は学校の読書感想文や、今受けている作文講座でくらいしか本を読んでこなかった。読書というのは、真に志を抱く人が自発的にするもの、また人を知る標準の四つの内の一つに入るほどと、この本には記されていた。このことから私は、今の自分は勉強をしてある程度の知識は身についてきているのかもしれないが、人としての面が読書をしてこなかった分、まだまだ未熟だと思い知った。今の状態では私の精神は死んでいるのと同じである。この死んでいる状態から、私の頭で思い描く、人としてのあるべき姿に変われるように、読書をする。そして、本から得たことを実践して、自分を作り上げていこうと思う。

→「今の状態では私の精神は死んでいるのと同じである」…すごいね。このドラスティックな表現。

中学・高校生の時に読む本は、意識の根幹に刻まれる気がする。なので、この時期に出会うべき本に出会っておくか否かで人生が変わると私は思う。思うに、18歳以降に読む本は、むしろ知識としての書物になって、記号として言葉や知識を頭の中にインプットしていくイメージ。

私の場合高校生の時に往復の日比谷線でよく本を読んでいたが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』、宮尾登美子の『蔵』を始めとする当時のテレビドラマの原作本。中国残留孤児を描いた山崎豊子の『大地の子』もそうだった。

小説の合間にビートたけしの本もほぼ全巻読んで、思い切り真面目な人間が思い切りバカなことも出来る、思い切り汚い人間が思い切り美しいものを知っている、という「振り子の理論」にもかなり洗脳されたクチである。