修身教授録より~教育の眼目

◎教育の眼目(P.36)
教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということになれば、私達は教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります。というのも、一人の人間の魂を目覚めさすということは、実に至難中の至難事だからであります。眠っている相手の魂が動き出して、他日相手が「先生に教えを受けたればこそ今日の私があります」と、かつての日の教え子から言われるほどの教師になるということは、決して容易なことではないでしょう。

とくに小学校では、何分にも生徒がまだ幼いですから、なるほど一面からは、子どもたちはよく先生になつくとも言えましょう。が、同時にまた相手が幼少なために、その自覚は不十分ですから、小学教育が真に徹底するためには、教師が直接子どもたちから親しまれるだけでなくて、さらに父兄たちからも心から信頼を受けるようでなければ、教育の真の効果は期しがたいとも言えましょう。

同時にこの一点に思い至るならば、何人といえども、小学教師たることのいかに容易でないかを思い知らされることでしょう。それというのも、父兄たちの社会的階層は千差万別であって、それらの人々から安んじてわが子の教育を託するに足る人物だ、と信頼されるということが、いかに容易なことではないかはお分かりでしょう。

そこで、ではわれわれとして、それに対して一体どうしたらよいか、ということが問題でしょうが、私としては、それに対処し得る道はただ一つあるのみであって、それは何かと言うと、人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬということであります。かくしてここに人を教える道は、一転して、自ら学ぶ果てしのない一道となるわけであります。

かくしてわれわれは、幼い子どもたちを教えて、その魂を目覚ますという重責につく以上、何よりも大切なことは、生涯を貫いてひたすら道を求めて、そこに人生の意義を見出すのでなければならぬでしょう。

◎生命の溢れた授業(P.47)
いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり。

◎真に人材を植える(P.124)
真に人材を植えようとしたら、現在自分の眼前に居ならんでいる生徒たちを、単にその現在眼前にいる姿において見ているだけでは足りないと思うのです。つまり子どもたちを、単にその1時間、1時間を基準にしてしか見ない教育は、その効果もまた、1時間、1時間で消え去る外ないでしょう。すなわちそれは、わが教え子たちの遠い将来を見通すことなく、しだいに成長していくその魂の中に、一生をつらぬく大眼目をまき込むことなくして、ただその日の所定の教科を、単に型通りに授けることをもって、能事畢(おわ)れりとするような教育であって、畢竟するに、幼稚園児のお相手と、本質的には何ら異なるところがないと言えましょう。

◎生徒の真実を把握する(P.149)
教育者は必ずしも流行の教育思潮を知るを要せず。肝腎なことは、自己を知ることを通して生徒の真実を把握することなり。

◎一生の基礎(P.168)
人間の一生の基礎は、大体15歳までに決まるものだと思うのです。したがってその年頃になるまでの教育は、相手の全人格を左右して、その一生を支配する力を持つわけです。

◎気品(P.334)
将来教育者として立つ人には、気品こそ、最も力強い教育的感化の源泉と言うべきでしょう。

◎生徒時代(P.424)
そもそも生徒時代というものは、ほんとうの欲はないものです。というのもそれは、その生活態度が受身の状態にあって、真の責任の地位に置かれていないからです。

◎卒業後の勉強(P.424)
卒業後の勉強となると、現実生活をふまえた上での勉強ですから、たとえその量は少なくても、その実のなり方が違うわけです。そもそも学校教育というものは、これを植物にたとえますと、いわば温室育ちというところがある。しかるに卒業後の忙しい現実生活において、仕事のさ中に勉強するということは、いわば風雪に鍛えられていく樹木のようなもので、そこには何とも言えない一種の趣を持ってくるわけです。

◎教師の三段階(P.425)
教師というものにも大体三段階がある。在校中からすでに生徒の信頼のない教師、これは下の教師である。次は学校にいる間は生徒の信用する教師、これは中の教師である。上の教師というのは、もちろん在校中も、生徒につまらないなどとは見えないが、しかしその真価は、在学中の生徒には十分分からぬもので、卒業後自分たちが現実の人生にぶつかるようになって、初めてその真価が分かり出し、しかも年と共に、しだいにその値打が分かってくるという人である。

◎教科間の障壁(P.464)
一人で全教科を担当する小学校にあっては、各教科間の障壁を除去し得る教師ほど、真の実力ある教師なり。教科間の障壁を除き得るは、その人が現実を把握しているの証なり。