日本的なるシステム

2017年9月の首都圏模試(中学受験)の国語の大問1より。北海道大学名誉教授・石城謙吉(いしかぎ けんきち)先生の書かれた「森林と人間」が出典。

今から5000年前、水のある地域を中心にエジプト文明・インダス文明・メソポタミア文明といった古代の都市文明が成立した。しかし、そこで都市の建設のために森林を伐採し尽くしたことで木材が枯渇し、森林の消滅により洪水による国土の荒廃や土地の生産力の低下を招いて古代文明は衰退した。

一方、日本は季節風がもたらす雨によって豊かな森林が育てられてきた。乾燥地帯の農耕文化と異なる森林文化では、都市を建設する必要がなかった。社会は小さな集落を単位とする分散的なものでよく、それぞれの集落のなかで必要なものを必要なだけ利用して、森林と共存しながら暮らしてきた。

更に、分散的な社会であるので特定の人間に富が集中することなく、得られたものが皆に再分配されるシステムが日本では維持されてきた。という話。

小学6年でこれを読ませるのは難儀だなと思うが、今の私の年齢になるとこういう文章で「うん、そうだよね」としみじみ唸らされる。貧富の二極化と都市の人口集中、地方都市の過疎化が進む日本は、まるで骨粗しょう症のようにスカスカの、古代文明末期と同じ状況といえるのではないだろうか。

先週の郁文館の話は大変刺激的ではあったが、かといって、日本の子どもたちの学力が全体的に上がっているわけではない。郁文館で述べていた先駆的な取り組みは、見方を変えるとまさに二極化された格差社会の勝ち組に生き残るための血と汗のノウハウだともいえる。

鎌ヶ谷界隈を見ていてもそうだが、既存の商売はかなり厳しくなっている。死闘を繰り広げて「欲望」と「消費」の社会に立ち向かっていった先に、全てが崩壊した最後には、 石城先生の「日本的なるシステム」に回帰していくのではないか、と思ってみたりする。突飛だろうか。