3月11日

東日本大震災から7年目を迎えた、昨日3月11日。

7年前のあの日はちょうど、私の塾業界の師匠にあたる田内先生の病院見舞いのため、首都高速都心環状線で江戸橋JCTのあたりを西に向かって走っていたところだった。

大型トラックが何台も私の脇を走り抜け、おかげで全くよく揺れるなあ、と文句を垂れていた矢先に周囲の車がハザードランプをつけて停止し始めた。

何事か、とCDを止めてラジオをつけると「地震です、地震です」とスピーカーが叫んでいる。のちに車の揺れは激しくなり、右に左にと高架橋の高速道路がグワングワンと大きく振り子のような動きを始めた。「マズイ!高速道路が折れる!!」ハンドルにしがみつき、跳ねそうになる身体を何とかおさえる。周囲の電灯だけでなく、高層ビルも動いているのが分かる。

「折れなくてよかった・・・」やがて揺れが収まると車列は動き出した。まだ正確に状況を把握できていない自分は「このまま三鷹まで行けるのではないか」と頭が錯綜していたが、次の神田橋で高速道路を下りて鎌ヶ谷に戻ることにした。

この時点で高速道路から下りる車はまだ少なかった。だが、一般道に下りると、周辺のビルからヘルメットを被った会社員がぞろぞろと近くの公園に集まりだし、異様な街の光景がそこにあった。

金曜日の午後だったのだ。茅場町から永代橋を抜けたのだろうか、次の記憶は両国のあたりかもしれない。すでに余震が頻発している頃であり、大きな揺れのたびに停止をしながらハンドルにつかまって揺れる街路灯を不安な気持ちで眺めていた。

蔵前橋通りから市川大橋のかかる国道14号線はすでに渋滞が始まっており、とっさにカーナビをつけて国府台の狭い路地に入ることにした。「トイレ行きたいな」・・・ナビの示すままに入ったのが市川市の曽谷公民館。

恐らく午後4時過ぎ。あの時はまだ公民館で子どもたちがバスケをして遊んでいた。その後やってくる「計画停電」など想像だにしなかった頃だ。

カーナビのワンセグで津波が街を押し流していく映像を「うわあ」と横目に渋滞を回避し、船取線の鎌ヶ谷高校近くのENEOSでガソリンを入れる。翌日から首都圏がガソリン不足に陥るなんてあの時誰が想像しただろうか。

いつもより倍の時間をかけて神社に戻った。当時教室は社務所にあったが、教材は散乱し、机や椅子も見事なくらいに位置を外れていた。社務所壁面の亀裂は現在でも残っている。

夜、卒塾するI・K君のお父さんが予定通りあいさつに来てくれた。「いやあ、大変なことになりましたね」「教室の中には入れないので外で」

その後の原発、計画停電、ガソリン不足、道路渋滞。テレビをつければACのコマーシャルの連続。鮮烈に記憶に刻まれたあの日、私にとっての3.11である。

死者・行方不明者1万8千人、関連死を合わせると約2万2千人の命が7年前のこの日を境に失われている。