追悼・田内寛人先生

私の元上司であり、仕事に対する心構えの土台を作ってくださった田内寛人先生が亡くなった。1月27日、享年57歳であった。

昨年9月に病気療養中の先生を訪ねた際に先生は「神尾さん、これ持っていって」とご自身のネクタイを私に託された。「やめてくださいよ、形見分けみたいじゃないですか」なんて話をしていたのだが、実際にそれが形見分けとなってしまった。

年内にもう一度訪問を、とお伝えしたまま慌ただしさの日常で再訪が叶わず、年明け後もしばらく時間が過ぎてしまった。佐渡に住む私の友人が毎年「おけさ柿」を送ってくれるのだが、先生は柿が一番の好物であったので今年の柿を是非届けようと先日先生の携帯電話に連絡を入れたものの全く通じない。不思議に思いご自宅に連絡を入れて、1月に亡くなっていたことをご家族から知らされた。

先生とはまだそう遠くはない2006年からのお付き合いであった。大学1年のTOMASから始まり、様々な塾・家庭教師を経てきた上での私の最後の勤務先となった塾で出会ったのが当時塾長であった田内先生だった。

先生は國學院大学をご卒業後、都内の区立中学校に教諭として着任、社会科を専門として進路指導主任まで務められた学校教員のエキスパートである。また、「新しい歴史・公民教科書」の執筆にも参加され、自著・共著を含めて教員向け指導書を始めとする教育関連書籍の出版も数多くされている。この他にも内閣府消費者教育の専門家講師として週末には全国各地でのご講演、中野区ことぶき大学での生涯学習セミナー講師など幅広く活躍された。

私が先生とお会いした頃は学校を退職され、とある塾の塾長として招聘されて数年が過ぎた頃であった。先生は私に対し、ああしなさい、こうしなさいと上から押し付けるように指示をされることはなかったが、教室内外で先生と過ごさせて頂く時間を重ねるにつけ、先生から薫陶(くんとう)を受ける毎日であった。

教科書を棒読みするのではなく、生きた言葉で歴史上のあらゆる場面を話術で再現していく社会科の授業。これは田内先生の真骨頂でもあり、先生の授業を受講した結果、社会と歴史への観念が切り開かれた教え子は相当数にのぼることだろう。

また、進路指導においては時間を惜しまず各高校に出向き、その学校の特質を的確に分析して面談に反映させていった。進路指導がこんなに豊かなものであるのか、と私が思うようになったのは先生と生徒家庭の面談の様子をパーティション越しに聞き取り、その内容を聞き漏らすまいとメモを取るようになったことがきっかけである。 先生と出会っていなかったら、現在の神尾塾の学校訪問と面談のスタイルは実現していなかったであろう。

塾長ともなれば開塾または着任当初の志は高くても、時間の経過と共に経営主義に陥ってしまう例が非常に多いことはこれまで数多く見てきたが、先生の場合は見事にその例に外れた。どこまでいっても生徒第一主義であり、ここまで純粋でクリーンな塾長は私は見たことがない。

予定していた授業の生徒が来なければ、「神尾さん電話番してて」と棒を片手に教室を飛び出していく。寝ている生徒の自宅の部屋の窓をたたき、起こしにいくのだ。塾の先生でそこまでする話は聞いたことがない。金八先生のごとく、それは生活指導のようでもあった。

ある日は教員用のゴミ箱にメモ用紙がこちら向きに置かれてあったので何かと覗いてみると、それは先生ご自身が漢字の書き取り練習をされた用紙だったのだ。教師という立場におごることなく、50歳の年齢を過ぎても学ぶことを怠らない姿勢。先生のデスクには積みきれないほどの資料、書籍、新聞が常に山のように積まれていた。

自ら学び続け、そして、生徒を治める。それは勉強面のみならず生活指導を含めた全人的なもの。公立中学校の教諭を永年勤めてこられた先生の「矜持(きょうじ)」のようなものであったのもしれない。

学校ではない塾という田内先生の新天地で、私立学校の教育運営アドバイス機関、大人のための社会科教養講座をやってみたい、と新しい企画を先生と企てている最中に先生は病を発症され、次第に身体の自由が効かなくなっていった。最後は身体が自由にきかないながらも渋谷教育学園渋谷高校(渋渋)の教壇に社会科講師として立ち、年度の途中に入院を余儀なくされた。

先生は真っ直ぐ一本気で、自分の考えたことに対して突っ走る気質でいらした。その分教員時代、そして塾長となってからも周囲との摩擦は絶えなかった。その事による自身の精神的疲労も相当な度合いに達していたであろう。それでも病気の身体を携えて、最後に渋渋で社会科の教壇に立てたことは先生にとって幸せな時間であったに違いない。

私にとって反面教師の部分が全くなかったわけでもないが、先生の訃報に接して、今の自分の神尾塾での仕事に対する最後の練り固めをしてくださったのが田内先生であることは間違いのない事実であり、先生と出会うことが無ければ今日の自分が存在しえないのは断言できる。

この一週間、ことあるごとに先生の生前の面影と声色が自分の中によみがえり、その度に怒濤のごとく悲しみに襲われる。今週、先生のご自宅を訪ね、ご家族と生前の先生を回想しながら、亡くなる直前までお元気であった表情の写真に接し、思わず号泣してしまった。

本記事はあくまで私の個人的な話題であるが、先生の記憶と思い出をここに留め、私の生涯の宝としたい。