外国人の見た日本

今年の1月に鹿児島の西郷隆盛顕彰館で買い求めた小冊子に書かれていた一編。


明治政府に招請(しょうせい)され東大の教授となり、大森貝塚を発見したアメリカ人動物学者モースは日本で徐々に気付き始めたことがありました。それは、道徳的教訓になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいということ。また、衣服の簡素、家庭の料理、周囲の清潔、自然及び全ての自然物に対する愛、あっさりした魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人への思いやり。これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、貧しい人々も持っている特質だということです。

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日、宣教師2人らと共に鹿児島に上陸しました。今からおよそ450年前のことで、当時の薩摩の人々や日本人に接したときの印象を『ザビエル書簡』として、イエズス会本部に送っています。

「この国民は私が遭遇した国民の中で、一番傑出している。日本人は相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っているものは一人もいない。日本人の生活には節度がある。」

「住民の大部分は読むことも書くこともできる。窃盗は稀(まれ)である。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり、かつ学ぶことを好む。私は今日まで旅した国において、キリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みについて、こんなに信用すべき国民を見たことがない。獣類の形をした偶像などは祭られていない。大部分の日本人は仏の教えを信じ、太陽を拝むものが多い。彼らは皆、理性的な話を喜んで聞く。」

「また、彼らのあいだに行われている邪悪は自然の理性に反するがゆえに、罪だと断ずれば、彼らはこの判断に、双手(もろて)を挙げて賛成する。このような人々をはじめて見た。」

ザビエルは「日本人は、文化、礼儀、作法、風俗、習慣において、恥ずかしいほど多くの事柄で、我々スペイン人より優秀である。日本人ほど理性に従う人々に世界中で会ったことがない」と賞賛しています。

出典:「西郷(せご)どんと薩摩士風(さつましふう)」(西郷隆盛公顕彰会・刊)

新入塾の生徒には学年に関わらず、「はい、と返事をすること」「椅子をきちんと仕舞うこと」、また状況によっては「前を向いてあいさつすること(よそ見しながらあいさつしない)」「紙を斜めに傾けず、まっすぐ書くこと」「字を消す時は消しゴムを何度も往復させてきれいに消すこと」といった極めて基本的なところから習慣づけを行っている。

今年の2月頃に入塾された生徒では、こちらから何も指摘しなくてもきちんと出来るようになってきた生徒と、まだ定着の不足している生徒が3:1くらいの割合になってきたか、というところだ。本来こういったことは小学3年頃までには定着させておきたいところだが、家庭・学校での指導力(気づく力)が落ちている現在では、よくない習慣が改善されないまま年を取り続け、中学3年になっても「ほら、そこで"はい"と言うんだよ」といった状況が日常茶飯事となっている。

「はい」の返事に関しては、「はい」が言える生徒は指導した内容の理解・吸収も速い傾向にあると思う。つまり、人の話を聞けている、ということだろう。「はい」が言えないということは自分の世界に閉じこもっている側面があるので、指示されたことに対して瞬時に理解・行動が出来ない、例えば「○○であること、の"○○で"に丸印をつけて」と口頭で指示をしても、「○○である」に□印をつける、といったようにだ。

また、字を丁寧に書く、ということも初期に指導することが多いが、字を丁寧に書くことで、数学・算数ならば途中式や筆算が見やすくなるし、その時点で無用なミスを防げる。結果、正答率が高くなり、勉強もトントン拍子で進んでいくわけだ。ものすごく超初歩的なことを書いているが、今は本当にこういったことの出来ない生徒が増えており、鎌ヶ谷エリアならば学年の上位3分の1以外は基本的に上記の例にあてはまっていると言えるだろう。

神尾塾に長年在籍している生徒の記録を引っ張り出して見てみると、初期には「物音に反応」「体をねじって書く」「右手を机の下に入れたまま体を傾けて書く」といったことが記録してあり、彼らに今それらが改善されているのを見ると、やはりこうした細かな指導(指摘)は大切なのだと改めて思う。

モースやザビエルが日本人を見て感銘を受けたというのは、代々家庭や江戸時代の寺子屋を中心にこうした指導がきちんと実践されていたからではないか。現在、小学英語の教科化だの、アクティブ・ラーニングだの、そういう上っ面の論議に流されて、本当に教育がなすべき「獣」を「人間」に変える基本的な行動習慣の指導がなされていないのが今の日本だと思う。

「人数」はいても「使える人材」がいない、と昨今言われる元凶は、ここにあるだろう。社会にとっても大損失である。