新しい一年間がはじまる

中3生が指導開始から1年以上を経て心身ともに成熟を見せて、高校受験と卒塾へのカウントダウンが始まっていくと同時に、年明けから徐々に新しく入塾生を迎え入れる場面が混在するようになってきた。

1年という時間は貴いもので、勉強面・行動面において大方の中3生はどこに出しても恥ずかしくない、と言ってよい仕上がりを見せ始めている。県立前期・後期の決着が必ずしも保証できるとは限らないが、どのような結果にしても、それぞれの生徒にとって大きな学びを得た一年であった、と後々振り返られる時間であって欲しいと願っている。

少なくとも私としては、「この子がこの1年でよくここまで伸びたな」という実感がそれぞれの生徒に対してある。もし、同様の想いをご家庭がお持ち下さっているとすれば、是非卒塾(または高校継続の場合でも)の際に節目の記念として卒塾感想を短文でも良いからお手紙でもメールでもご家庭の方には寄せていただきたい。

一方で、新しく入塾された生徒・ご家庭には、また必要なことを最初の一歩から説明を始めている。生徒には「モノを両手で『お願いします』と言って渡すのだよ」とかそういった毎年繰り返しの儀式のような、そんな時期でもある。

どこの馬の骨ともつかない個人塾に入塾してくださることだけでも、ご家庭としては大変リスキーなハードルを乗り越えて下さっていることだろうし、大変に有り難いことなのだが、毎年同じ一年を繰り返していくにつけ確実に言えることは、ご家庭の対応が1年後には全く変わってくる、ということだろう。

入塾当初はお互いに相手のことが分からない、ということもあるだろうが、いわゆる「客vs商売人」という目線で塾に対峙されている印象を新入塾のご家庭から強く感じてしまう。一方では「わが子を預ける」ことに対する「何とかして欲しい」という願いも同時に感じながら、他方では「客上位、商売人下位」の価値観の目線で塾をご覧になっているような感もある。

それもそのはずで、ちまたに商売塾が氾濫している現在においては仕方のないことで、「塾がどの程度のことをするのか」「ダメなら変えてやる」、という商品として塾や先生を見る視線があるのは事実だろう。実際、「お子さんと相性が合わなければ何人でも先生を交代します」とか陳列棚に並ぶ商品のように講師を扱って、教育の崇高さや神聖さをどんどん汚している経営至上主義の商売塾が諸悪の根元であって、そういった価値観に慣らされた先述の視点を大多数のご家庭が持ってしまうのは仕方の無いことだろう。

神尾塾の中で一年をかけて汚染された視点を取り除き、もちろん月謝はお支払い頂いているが、ある意味【人間として対等に】、ピュアなものの見方が各ご家庭に醸し出されて来るようになるのを毎年一年間を経て感じる。ご家庭とやり取りさせて頂くメールの端々であったり、月謝袋に封入してくださるお月謝の扱いであったり、そこに込められる想いが確実に変化してくるのだ。メールでも月謝袋でも、それを媒体として、そこに「想い」は確かに載っている。

学習面では途中式の書き方や辞書を調べる習慣、行動面ではあいさつのタイミングなど、ごく基本的な指導を薄い濃度から始めて、頻度と濃度をいつしか次第に高めていく指導の積み重ねがご家庭の意識も次第に変化させていく、そういったロングスパンの取り組みが3ヶ月単位で生徒に変貌をもたらしていく。

これまでの伸び状況のページに掲載したことは神尾塾そのもので、これ以上でもこれ以下でもないが、また新しい一年を新しい生徒と迎えつつあるこの時期に、なんとなく、これからの道のりの遠さとその生徒にしなければならない取り組みの膨大さに気が遠くなって、ともすれば私としては呆然としてしまうかもしれないという、そんな複雑な2月である。