王陽明・伝習録

中国明代の儒学者、王陽明による「伝習録」から3編を抜粋してみよう。出典は溝口雄三・訳「伝習録」(中公クラシックス)。


◎人は対処するその事柄に即して自己を磨くべきで、そうしてこそ足もちゃんと定まり、『静にも定まり、動にもまた定まる』ということがかなう。(P.51)

目の前の仕事に全力投球せよ、ということに尽きる。一つの物事を仕上げる集中力が己を磨くことになり、物事に動じない精神力をも養える。ちなみに、神尾塾はある意味そういったことのための道場のようなものでありたいと考えている。


◎わたしがここで学を論ずるのは、無のうちに有を生ずる功夫(くふう)でもある。諸君はぜひここのところを信じて、志を立ててほしい。学ぶ者に少しでも善を成就しようとする志が芽ばえたら、それはいわば樹における種芽にあたる。ただ『助(あせ)らず忘(おこた)らず』ひたすらそれの培養につとめさえすれば、それは自然と日夜に生長をとげ、生気は日にたくましく、枝葉も日に繁茂するわけだが、その場合、最初の苗木の段階で、無駄な枝をつみとってしまわないと、根や幹はしっかりしたものに育たない。初学の時もこれと全く同じである。だから、志を立てるには、一つのことに専心することが大切なのだ。(P.124)

幕末に橋本左内が「啓発録」で同じことを言っている。目標を定めよ、と。
http://kj-log.cocolog-nifty.com/kamiojuku/2014/10/post-1fe3.html


◎学問にも、外からの教導が必要だが、しかし、みずからによって解悟したものは、一を悟って万事に通じるものであり、その点でまさるものがある。第一、みずから解悟するものがなければ、教導を十分に受け入れることができない。(P.393)

教えられるものは基本的に右の耳から左の耳へ抜けていくのは私も同じ。不器用でも自分で調べたりして答えを自力で見出そうとすることの方が遥かに力がつく。その過程で経験する一見無駄に見える取り組みが更に血となり肉となって自身の栄養になる。蒸留水は味もそっけもないが、マグネシウムやナトリウムといった”異物”を含んだミネラルウォーターの方が味わい深いのと同じである。

神尾塾でも、基本知識や技能を教えるのは最小限に留めて、生徒自身にとにかく調べさせる。英文の和訳でも、こちらがポッと答えを言ってしまえば済むような箇所でも、あえて時間を充てて生徒に自力で和訳させる。そういう意味で神尾塾の授業は根気勝負のようなところがある。

また、生徒にとって「教えてもらう」というのはある意味生徒を「お客様」にさせることで、その生徒にとっては「他人事」の意識になってしまいやすい。当事者意識を持つことが、勉強でも仕事でも、成功のための王道となることは明らかだ。