理系に学ぶ。

各界の理系15人へのインタビュー。

—(抜粋ここから)
川村)技術の人たちは現実を見ていてどう実現させるのかのスペシャリストなんだけど、その人たちを新しいゾーンに連れていくのはアートやストーリーの人たちなんじゃないかと。(P.82、任天堂クリエイティブフェロー・宮本茂との対談)
—(抜粋ここまで)

前者が理系で、後者が文系の役割、と。

—(抜粋ここから)
天野)父親が心臓弁膜症になっていろいろとお金が必要になったという表向きの理由はあるんですけど、麻雀なんかも相当やってました。どっちも「ここだ」と思ったときにダッシュできるかどうかが勝負の分かれ目で、いい流れが来る瞬間を身体で感じるというか、そのときの経験は外科医になった今も生きています。(P.160、順天堂大学心臓血管外科教授・天野篤との対談)
—(抜粋ここまで)

チャンスをつかむかどうかは自分次第、と。

—(抜粋ここから)
天野)底に至ったときに「俺はもうだめだ」と諦めたら、たぶんだめです。でも「むしろ底こそがいつもの定位置で、ここに来たら自分は絶対に外さない」と思えれば、這い上がれる。(P.168、順天堂大学心臓血管外科教授・天野篤との対談)
—(抜粋ここまで)

五木寛之の「究極のマイナス思考から本物のプラス思考が出てくる」という言葉にも通じるような気がする。

—(抜粋ここから)
川村)作るって行為を外注しちゃだめなんですよね。
高橋)だめですね。泥臭いことを絶対的に自分でやらないと。そこはものづくりでは切り離せない部分だと思います。
(P.190、ロボットクリエイター・高橋智隆との対談)
—(抜粋ここまで)

「泥臭いことを自分でする」…これは数学の問題を解くのに似ている。一足飛びに華麗な解法を先生や参考書に求めるのは先の話で、まずはどんな方法でもよいから自力で、泥臭い方法で解を求めることが、実力をつける上でこれこそ絶対的に大事なのだ。

—(抜粋ここから)
川村)日本の場合、システムが効率的にできすぎているせいで、例えばツアー旅行でも「これとあれとそれを見たら終わりです」みたいなことになって、脇道に発見があることを忘れている気がして。最先端のMITで、みんなが脇道に行くことを許されて、そこで発見をしている環境に、真逆のものを感じます。(P.320、マサチューセッツ工科大学メディアラボ所長・伊藤穣一との対談)
—(抜粋ここまで)

修学旅行では例えば法隆寺から薬師寺までもバスで連れて行ってもらえる。生徒は道中、友達と車内でおしゃべりをしたり、じゃれ合っていればよい。でも、旅の楽しみはその途中の道を自分で歩いてみることだったりして、通りすがりの民家にその地域独特のファサード(表面)を感じたり、目の前に突然小さな古墳が現れたり、T字路の目の前が唐招提寺だったり、と脇道にこそ味わいや発見があり、楽しみが深まるというものだ。そういう意味で、効率的であればあるほど、人間の情感に残る何かがどんどん削ぎ落とされていく、という皮肉がある。

※出典「理系に学ぶ。」(川村元気・著、ダイヤモンド社)