塾は裏方

塾はあくまでも裏方だ。生徒が自力で自転車をこげるようになったら、補助輪である塾はいつの間にか姿を消しているのが好ましい。これは指導者の心がけの重要なポイントである。

だから授業も、先生がパフォーマンスをする時間ではなく、生徒が自分で頭と手を動かすためのきっかけ作りをしているに過ぎない。講義は最低限で充分であり、あとは適宜のヒントでいかに生徒に自走させるか。これが指導者の腕の見せ所といえる。

ところが、指導者が陥りがちな錯覚があって、つい教えたくなってしまうのである。つい先生のパフォーマンスタイムが長引いてしまい、生徒はフンフンと聞いた話を右の耳から左の耳へと通過させながら鉛筆を動かすこともなくただそこに座っているだけになってしまう。先生の錯覚というのは、そんな状況で講義をしている自分に酔ってしまうということだ。それで充分仕事をした気になってしまう。

私もかつては上記のタイプだったのだろうな、と思うが、今ではお寿司屋さんの大将?として、店のカウンターに座る4人のお客さん(生徒)に向かいながら、時にはパソコンのキーボードをたたいて生徒の授業記録とにらめっこしながら、次の一手をどうするか、次回の授業をどうするか、生徒に飽きさせない授業構成は?今日の授業が進路を見据えた指導になっているか?ということを全身の毛穴で生徒が発する気を吸い取りながら考え続けている。

確実に段取りを踏んでいくから、生徒が手持ち無沙汰になることはまずなく、生徒は常に頭と手を動かし続けることになる。(生徒が手持ち無沙汰になる時があったとしたら、それは私がすこぶる集中力を欠いている日ということになる)

当然、私にも生徒にも「集中」が必須となるから、生徒同士の私語なんて有り得ないし、遅刻や返事をしない、といった授業のスムーズな進捗を乱す行為は許されないことになってくる。しかし、それでいて軍隊的に冷徹厳格な空気が教室に流れているのか、といえばそういう訳でもなく、慣れた生徒にとっては「ま、これが普通だよね」という感覚になって、それでいて必要な会話や質問のやり取りを私と気軽に行っている。

逆に言えば、神尾塾のこの空気に馴染んでしまえば、他所の塾はぬるま湯につかっているようで居心地が悪く感じるだろうなと思う。

このような環境で過ごしている生徒たちにとって、この環境がにわかに消滅した時、そこで行われていた「集中」の行為が相変わらず生徒自身に残って継続して取り組みが出来ていること。自転車の補助輪が消えてもなお、自転車が自走出来ていること。このイメージを私は片時も忘れることがない。