転換点

最近の生徒を見ながら、変化してきたなと思うことを記してみる。(特定の生徒に向けて書いているのではなく、全体的な傾向として記す)

◎学校の提出物を出さない生徒が増えている
かつて提出物を出さない生徒は各クラスで下の方の数名だけだったと思う。今はその提出しない層のボリュームが肥大化している。ならばと塾が学校のワーク提出に手出しせざるを得なくなるのだが、テスト範囲表に基づいて、ではなく塾の先生が指示した所だけやる、それ以外は手をつけない、また、丸付けをして文章題の分からなかった所に解答しか書かず途中式を書かない、空欄のページがあるなど、イタチゴッコで塾がワーク管理をするにもキリがなくなってくる。底なし沼のように指示を続けないと提出物のひとつも完成させられない。そして、塾が手出しをしなくなると、生徒は再び何もしなくなる、ということだ。

◎テスト勉強をしなくなった
鎌ヶ谷市は(近隣市もそうだが)中間・期末試験4日前まで部活動をさせている、都内で2週間前に朝練停止、1週間前に午後練停止の中学校生活を送っていた私にとっては驚がくの状況なのだが、試験日までに提出範囲のワークを終えること(解答欄を埋めること)が勉強だと思っていて、その先の反復練習や理解を深める勉強に至っていない生徒が多い。また、試験そのものについても、テストに対する漠然とした恐怖感(勉強しないとマズい…と思うこと)や、低い点数を取った時の罪悪感のようなものを感じる生徒が減っている。朝に太陽が出て、夕方に沈んでいくがごとく、テストは何気ない日常の通過点の一つであって、生徒にとって必ずしも「節目」となっていない。

◎受け身の姿勢が強い
指示待ち、受け身が強い、というのは最近よく聞く話ではある。「テスト勉強をしなくなった」の項とも共通するが、これは「どうやって勉強をしたらよいか分からない」と言っても良いのだと思う。つまり「分からないなりにやってみる」「やりながら工夫してみる」という根本的な知恵に欠けている、ということを指摘しておきたい。恐らく、幼少期から「製品として完成されたおもちゃ」「システムの整ったゲーム機」で遊んだりして、幼い頃からサービスの「受け手」として生活せざるを得ない、経済的に豊かになったが故の不幸がここにあるのだと思う。遊ぶ道具がないからその道具を作ろうとか、自分がサービスの提供側になるという、創意工夫の訓練を経ないまま中学生になってしまったからだと言える。

「受け身」という所で、例えば、昨年の某中3生の考察をしてみよう。

中2の始めの頃に入塾して、数学・英語の土台づくりから始めた。で、中間・期末テストについては、


学年順位:数学130位→10位(1年学年末→3年1学期)
学年順位:英語105位→1位(1年学年末→2年学年末)
学年順位:理科126位→20位(2年1学期→学年末)

という推移を見せた。6月のVもぎで鎌ヶ谷高校S判定まで届いている。

ところがだ。実技教科の低評価が目立った。実技教科の学年順位は3年後半になっても100位より大きく下回り、評定も2がついてしまった。この生徒は、塾で指示された範囲の取り組みに関しては忠実な成果を見せたものの、「塾がそこまでいちいち口出ししていたらキリがないよ」と言いたくなってしまう領域についての自律的な取り組みは全く駄目だった。授業中の会話でも「ノート、書いたほうがいいですか」「問題集、持ってきた方がいいですか」「…いやいや、それくらい自分で考えなよ」と何度返答したことか。

仮に塾で教科学習に力を入れて順位を上げたとしても、根元の提出物が出せていなければ評定は下がる。「5が4」に「4が3」に「3が2」になってしまうのだ。では何のために塾で教科指導をしていたのか、という話になる。結果、こういう生徒は受験競争で生き残ることが出来ない。自分で何か一つでも二つでも喰らいついてやろう、という意欲が無いとなかなか上手くいかないのは学生時代だけなく、大人の社会生活でも同様だ。

◎一教科の成功体験が他の教科に波及しない
「受け身」による悲劇はいろいろと連鎖する。かつて、一つの教科を集中して取り組んで、そこで点数を取らせる。すると生徒は「ここまで勉強すればこんな点数が取れるのか」と自信を持ち、その成功体験を他の教科の試験勉強に波及させていく、という一つの好循環があったのだが、この成功パターンが成立しにくくなっている。どこまでも支援して、そこまでも段取りをしてあげないと、前に進めないのだ。

◎欲が無い
「うちの子は欲が無いんです」面談で保護者からよく聞く言葉である。欲が無くなるのは経済的に豊かな国に住んでいるからこそであろう。

欲が無いために、例えば確認テストで「満点を取らなきゃ」という意欲も欠けてくる。ある生徒に漢字テストを実施したのだが、練習方法を伝えて何度もデモンストレーションまで行ったものの、本番テストで満点が取れない。すると、「次回満点を取れなかったら、書けなかった漢字をその場で50回ずつ書かせる」と、罰則のようなものを掲げてみる。しかし、生徒にとっては「満点取れなくても50回書けばいいんだから」と、50回書くという非常に不毛な取り組みに対する嫌気や恐怖心のようなものが見えてこない。この50回練習に生徒は嫌な表情を全く出すことなく、普通に取り組んでいたりする。

◎読解力と注意力に欠けている
これは多くの生徒で発生している。問題文を読まない、読み間違える。そういう生徒に音読をさせると、書いていない文字を読んでしまう(目で文字を追った結果を発音するのではなく、一文字一文字を丁寧に読まずに、頭の中で勝手に言葉を解釈・継ぎ足して発音する)ことがよく見られる。また、計算ではプラスマイナスの取り違い、2乗3乗の付け忘れ、といった不注意を連発している生徒も随分と増えたように思う。訓練で解決していく場合と、ごく薄いADD(注意欠陥)との関連を疑う場合、あくまで度合いの問題だが、今後私自身考察していかなければならないテーマだと考えている。
※尚、計算力改善の実践については次週の塾通信でその一例を示す。

◎形骸化が進む
現在、中間・期末テストの前には各学校で「計画表」なるものが配布されている。生徒は計画表に「○日=数学○ページ練習」とか書いて提出するのだが、私が中学生の時、そんなものあったかな?と思う。現在多くの生徒の計画表を見て思うのは、そこに勉強の実態や本質は無くて、形骸化してしまっているということだ。この計画表を使いこなしてテスト勉強が出来ている生徒は、上位のほんのごく一部だろう。多くの生徒にとっては「計画表を提出するための計画表」と化してしまっている。

近年、私立高校の間で手帳管理を課す学校が増えてきた。これはもう流行、と言って良いだろう。目標や一日の行動記録、To Doリストなど、大人顔負けの手帳を生徒に作成・所持させて勉強をさせるというもの。大人になってから当然となるタスク管理の意識を中高生に植え付けよう、という意味では好感も持てるが、学生時代にそこまでしないと勉強が出来ないのか、と思えなくもない。

諸問題について色々書いてみた。

神尾塾はもともと季節講習会を実施しなかった。それは、私がかつて集団塾・個別塾で指導をしていた際に、講習会の不毛さをまざまざと味わっていたからだ。講習会で連日生徒が集中授業を受けるということは、そこで効果を得られる生徒ももちろんいる。でもそれはごく上位の一部であって、多くの生徒にとっては2日目、3日目と次第に天井を見上げてボーっと過ごすことになる。まして弁当持ちで一日4時間も5時間も授業を受けるのなら尚更だ。

家庭にとっては、息子が、娘が塾で毎日勉強をしている、ということで預ける安心感があり、費用がかかっても夏期講習に行かせようという気持ちになるのではないかと思う。夏と言えば夏期講習だし、家で勉強をしないから塾だったら少しはするだろうという期待もある。この点の家庭側の期待と、実際に塾でどれだけ効果の上がる指導が出来ているか、という点には大きなギャップがあるような気がする。

そこで、神尾塾では立ち上げ当初から季節講習会を実施せず、その代わりに授業増設という手段を使って、週2回だった授業を夏休み中だけ週3回・週4回と増やし、連日は行わずに1日おきの空白を設けたりして宿題をきちんとこなさせるローテーションを組むようにしていった。

しかし、このところの諸問題をかんがみると、授業増設という方法だけでも限界を感じるようになっているのが正直なところだ。(実際、今夏も授業増設を組む生徒は少なからず居るし、そういう生徒は授業増設の方式が成立するからこそ、授業増設の方式を塾として提案している)

生徒が「手取り足取りの受け身」ではなく、「自ら選択し、自ら学ぶ姿勢を育む」ためのシステムづくりをしていかなければならないという、いわば指導方法の転換点に来ているように思う。これは神尾塾だけでなく、集団塾でも個別塾でも起きていることだろう。そう考えると、個別指導も集団指導も優位性はなく、それぞれが変革して「ただ与えるだけ」の授業から脱却していかなければならないということだ。

と、いうことを踏まえて今年の夏に向かいたい。