ダウン症の女の子

年末、年内の最終授業にあたって「一年間教えてくださって有難うございました」とあいさつしてくれた小6女子、「今年も有難うございました、来年もよろしくお願いします」とあいさつしてくれた中1女子がいた。他の生徒のいる中でこれを言うのは勇気が要ったことだろう。また、年が明けて複数の生徒が新年のあいさつを発してくれた。

このように気を利かせてイレギュラーなあいさつが出来るのは素晴らしい。これは他人に対する挨拶であるかもしれないけれども、これを昔の人は「徳積み」と言った。それは自分に対する心の貯金をしているようなもので、福の神が振り向いてくれるきっかけを自ら作っているのである。この善き習慣を是非とも持ち続けて欲しいものである。

さて、
この正月、気になったことを書いてみる。

神社には親子連れで参拝に訪れる人が多い。そして、参拝された方にはお神酒と授与品をお渡ししているのだが、物を受け取って「有難う」と言える小・中学生は全体の半分以下だったように思う。多くの場合は、父または母が「有難うございます」と言って、子ども達は無表情のまま黙ってそれを受け取っていった。

もちろん、「ありがとうございます!」またははにかみながら会釈をする子もいる。しかし、それはむしろ少数派になってしまった。大げさな話になるかもしれないが、この国の教育は間違っている、と私は強く思った。

こんな例もあった。初老の男性が幼稚園~小学校低学年らしき孫を二人連れてきた。参拝後にお菓子のケースを差し出すと、その孫はおもむろに手を突っ込み、黙って菓子を持っていく。祖父は「ほら、有難うと言うんだよ」と教えるどころか、「あらーよく取れたねーえらいね~」とその無言の孫を褒め称えたのだ。

この話は、現代の典型的な家族像を映し出しているような気がする。いや、私も塾内で日没後なのに生徒に「こんにちは」とあいさつをしたり、細かい部分で指摘されるべき行動をすることもある。

しかし、必要な時に「ありがとう」またはちょっとした会釈が出来ない子どもたちを量産している今の日本社会はいったいどうなっているのだろう、と考えるのだ。中学受験に英語を導入したり、形ばかりが先行して、中身の心の面がまったく教育されていないというのが現在の日本の教育の闇の側面であると思う。

次々と参拝に訪れる家族がそのようなパターンが非常に多くて、気持ちが落ち込みそうになっていたのだが、そんな1月2日。午後4時を過ぎて小さい女の子を連れた女性が参拝にやってきた。

その子の顔をのぞき込むと、どうやらダウン症であるらしいことが分かった。女性は親族ではなく、一時預かりのシッターさんであった。大麻(おおぬさ)での祓い清めとお神酒が終わって、通常通り授与品を渡すと、その女の子は自分にももらえると思っていなかったらしく、キャッキャと飛び跳ねながら「ありがとーーありがとーー!!」とお辞儀をして喜んで受け取った。満面の笑みである。

シッターの女性も、「こんな夕餉(ゆうげ)の時間に申し訳ありません…ここまでしていただいて」と恐縮している。女の子は隣で授与品を眺めながら嬉しそうにしている。そして、「ありがとーー!」と何度もこちらを向きながら手を振って帰っていった。

五体満足な子どもが無表情で無言で授与品を受け取って、ハンデを抱えた子が、まだ身長が1mにも満たない幼さなのに何度もお礼を言って喜んで受け取っていく。

この差は何なのだろう、と。ダウン症の女の子の後姿を眺めながら私は涙が出た。そして、私はこう決意した。「光の当たりにくい人に光を差し込む仕事をしよう」と。

神尾塾でこれまで取り組んできたことは、順風満帆な生徒をハイレベルの学校に入れるというよりも、一人ひとりそれぞれの問題、背景に応じて不登校であったり何らかの障害を持っている子であったり、また勉強の行き詰まりを感じている子に「希望」を伝えていくようなことが中心であったと思う。

全てがうまくいくわけではないけれども、随分前に卒塾した生徒の親御さんから、神尾塾に通ったおかげで今日の息子がいます、と書いてくださった年賀状を見ると、七転八倒しながらもこれまで取り組んできたことは間違いではなかったのかな、と思ったりもする。そんなことを考えながら、平成27年が始まった。

この記事を書いた人

kamiojuku