とある店で食事をとっていたら、向かいのテーブルに祖父・祖母・孫の関係らしき3人が座っていた。祖父は海鮮焼きか何かを食べている。祖母はビールを飲んでいる。そして小学校高学年とおぼしき孫は小型ゲーム機でゲームをしている。
驚いたことに、その孫はずっとゲームをしているのだ。少なくとも私の着席中はずっと。
食事の場であるならば、「おい、ゲームはやめなさい」くらい祖父母は言えないのだろうか、と強く不思議に思った。私が身内だったら、瞬間的にゲーム機を手で払って床に落とさせるかもしれない。食事の時間は食事に専念させるべきなのだ。このままではお店に対しても、食べ物に対しても失礼である。
この3人にどのような事情があるのかは、外部の人間には分からない。ただ、少なくともこの祖父母は孫に対して不干渉だったのか、または遠慮をしていたのか、そのどちらかであることは間違いないだろう。
そんな場面を目撃した翌日、読売新聞の8月12日(火曜日)夕刊に、ミュージシャンのさだまさしさんのエッセイが掲載されていた。とても良い文章だ思ったので、以下に転載する。
—(転載ここから)
「お互いさま」が恋しい(さだまさし)
僕は中学1年生の時からバイオリン修行のために単身上京し、下宿生活をした。当時、帰省に使われるのは急行列車が主流で、東京-長崎間は『急行雲仙号』が23時間57分、ほぼ一日掛けて走った。夏はそれほどでも無かったが、冬の、殊に正月の帰省列車の混雑は酷く、乗車率150%をはるかに越えた。当時の急行列車は座席指定の1人用リクライニングシートの『一等車』が一両。あとは2人用の直角座席に向かい合って4人が座る自由席の『二等車』だった。
混雑期には自由席と言えども、徹夜で並ぶ覚悟が無けれぱ座るのは難しい。大混雑の帰省列車は通路に新聞紙を敷いて座る人、寝る人、トイレのあるデッキ周辺も人で埋まり、実際車両の真ん中あたりに座った人はトイレに行って戻るのに半時間以上掛かったくらいだ。
勿論僕は徹夜で並んで座席を確保し、必ず一番トイレに近い席を選ぶようにした。蒸気暖房はあったがクーラーなど無い、思えぱ息苦しくなるほどの混雑の中で、よくぞ眠れたものだと思うけれども、誰も彼も公共心に篤かった時代だ。夜になれぱ大声で話す人も無く、理性的に少しずつ互いに譲り合い、誰かが困っているとみんなで助けた。
何しろペットボトルや缶ジュースなど存在しない頃だ。せいぜい夕方駅弁と一緒に買ったお茶を少しずつ口にして朝まで凌(しの)いだものだ。それでも喉が渇いて泣き出す赤ちゃんや子どもの所へは誰かの水筒の水が届く、そんな温かな時代だった。今は飛行機で2時間足らず。新幹線でも博多まで5時間を切るぼど日本は狭くなり、交通機関はただの移動の手段に過ぎなくなった。
奇妙だが豊かになると同時に個人主義が主流になって、他人とは没交渉という人も増え、いわゆる旅の風情もすっかり変化した。公共心よりも、誤った『個人の自由』が巾を利かすようになった。列車の中でも子どもは好き勝手に騒ぎ、その子をたしなめるべき祖父祖母は一緒に大声ではしゃぎ、孫の機嫌を取る。子どもがぐずらぬようにゲーム機やスマホを与え、ピポピポという音が周囲の乗客を不快にさせていることを慮(おもんばか)る親は少ない。
こちらが少しでも嫌な顔をしようものならにらみ返す。自宅のリビングを公共の場に持ち込む『愚かな親』『愚かなじじばば』がいつの間にかそこら中に満ちている事に驚く。帰省列車の『お互い様』や『人として共に旅を過ごす』という、風情に満ちた人と人との温もりが恋しい。
『されて嫌なことはしない』、それが『自由』の約束、基本なんだけどなあ。みんなが貧しかった頃の方が互いに助け合えたんだなあ。豊かさとはなんだろう。
—(転載ここまで)