合格の報告

今年は中学3年生が8名在籍した。そのうち6名が県立高校を受験し、6名全員が前期合格を果たした。前期で決まる優越感とか安心感といったものは大きかっただろう。

6名のうち、1名は発表直後に電話で合格を伝えてくれた。「おめでとう!よく頑張ったね」こちらからも大絶賛の嵐だ。他3名は本人またはご家庭の方が午前中のうちに合格をメールで知らせてくれた。ここで残り2名。

2名のうち1名は当日授業に来ても何も言わないので「どうだった?」と聞いてみたら「合格しました」と言って嬉しそうな顔をした。私は「おめでとう」などとは決して言わず、「節目の時に自分から報告をしないのは社会的に信用を失くすよ」とだけ伝える。神尾塾が単なるサービス業だったら「よく頑張ったね!おめでとう♪」と言うのが正しいのかもしれないが、こちらはあくまで生徒にとって「善くなる」ための一挙手一投足でなければならないと考えているので、この場合「おめでとう」と言うのは真の意味で生徒のためにはならないと考えている。

もう1名は翌日授業だったのだが、自分からは何も言わない。この時点で私はこの生徒の合否を知らない。ただ、生徒の来塾時間を勘案して合格しただろうという予測はついていた。授業が始まり、いつ言い出すのか。私は「その時」を待ったのだが、その生徒は結局そのまま授業を終えて帰ってしまった。

その後お母さんと私の連絡を経て、翌日生徒は「すみませんでした…」と言いに来た。「人生の大事な節目の時は、尋ねられるのを待つのではなく、自分から報告するということを肝に銘じておかないと。いつまでも受け身ではいけない」と私は伝える。

今回は前期合格だったためか、6名全員がその後お父さんまたはお母さんと後日あいさつに訪れてくれた。全員があいさつに訪れてくれたのは開塾以来初めてのことだった。この生徒はあいさつに来ないだろう、と推測していた子もあいさつに来てくれ、この1年が大きく報われたような気がした。

報われたというのは、私に対するあいさつを欠かさなかったから、という私が大上段に立った見方をしているのではなく、大事な節目の時にきちんと礼を尽くせる生徒およびご家庭が塾生として在籍していたということなのだ。

生徒にとっては、節目の時に先生にあいさつをするという礼儀を経験し、今度は自身が親の立場になった時に子供に同じことをさせることが出来るだろう。そうすれば、周囲の大人から見て、「この子はしっかりしているな」「このご家庭はしっかりされているな」という緊張感を与え、その子自身を見つめる社会の目が変わってくるということなのだ。ひいてはその生徒やそのご家庭自身が幸せになっていく、ということなのだ。

昔の人はこういった行為を「徳」を積む、と表現したのだが、徳を積むのは他人のためではなく、回りまわって自分のためになるということが断言出来る。まさに、情けは人のためならず、である。