集団形式で数学の授業を聞いていると、先生が如何にも無駄のない鮮やかな方法で解説を示してくれる。また、参考書や解説書も同様で、極めて簡潔に最短距離の解答方法を示してくれるものだ。
しかし、数学は自分で図を描き必要な情報を紙に書き出し、まず自分で考えてみることが大切である。その上で行き詰ったら説明を聞くなり解説書に頼ればよい。最短距離ではない遠回りで地道な解き方のことを「泥臭い解き方」と呼ぶが、まずはどんな泥臭い方法であっても、自力で解けるようになることが大切である。鮮やかな解説を聞きなれていると、自分もその方法で解かないと間違いなのではないかと勘違いしてしまい、そういう方法で解けない自分は「駄目だ」と思い込んでしまう。
証明問題も全く同じで、模範解答通りに書かないと間違いなのではないか、と思ってしまい、その通りに書けない自分は「証明問題が出来ない」「苦手だ」となってしまう。
そんなことはなくて、基本の定石さえきちんと学んだら、まずは自分なりに書いてみたらいい。合同や相似の証明問題であれば、結局は合同または相似条件が合っていればよいのであって、つまり話の筋道が通っていれば良いだけだ。国語の古文解釈も同様である。重箱の隅をつつくような細かい表現にこだわって古文解釈が面倒または嫌いになってしまうのは本当に勿体無い。それよりも、たくさんの文章に触れ、そのエッセンスと流れの本筋を読み取る訓練に時間や気持ちを充てていくことが大切だ。
話を戻すが、数学であれば、泥臭い方法で解答に至った結果、先生の鮮やかな解説や解説書の簡潔な解法よりも自分が行った方法のほうが、それらよりも自分にとって納得しやすい方法であったり、理解しやすい方法であったりする。
「鮮やかな解説」に毒されてはいけないことと、「泥臭い方法でいいじゃないか」という気持ちを大切にしてもらいたい。