必ず誰かが見ている

とあるローカルラジオ局の公開生放送を観覧していた時のこと。20分程度の番組で、毎日デパートの店内から放送してお客さんのリクエスト曲を受けつけるのだが、とにかく観客が少ない。チラホラあがる挙手の中からMCの女性が指名して、客へのインタビューを交えながら音楽を掛ける。

終盤になると、番組はまだ終わっていないのに客は席を立ち、放送終了直後には客席にほとんど誰もいない状態だ。そんな中でMCの女性が「この後もお買い物をお楽しみ下さい、本日は有難うございました」と客席に向かって丁寧に一礼をしステージから下りていく。

同じ毎日が続けば「ここはそういう現場なの」と慣れっこになっているかもしれないが、MCの女性も最初は戸惑っていたのではないだろうか。「誰も私のことを見ていない」と。今は客席の反応があってもなくても淡々と毎日の番組をこなしていく、という感じなのかもしれない。

吹き抜けの2階のベンチに座って階下のそんな一部始終の光景を眺めながら、私はその番組が好きだったので一人勝手に胸を熱くしていた。

自分が何かを行動して、それが即座に目に見える反応として自分に返ってくる訳ではない。いくら頑張っても自分に誰も何も言ってくれない。でも、本当は「必ず誰かが見ている」のだ。ラジオの現場であれば、取るに足らぬ存在ではあるが、少なくとも私が「見ていた」。ただ、それが当事者に伝わっていないだけなのだ。

だから、誰も見ていないだろうから、と自分で勝手に思い込んで手を抜いたり、気持ちがクサってしまうのは勿体ないことだ。何か自分が頑張っていること、取り組んでいることがあるのなら、自分が納得のいくように頑張り続けることが大切。その時は賞賛されなくても、誰も素通りして自分のことを見ていないように思えても「必ず誰かが見ている」のだから。