一昨年のことだが、私は神道を再研修するため1年かけて師のもとに通っていた。國學院大學で神職資格を取得して以来、10年ぶりに古事記、日本書紀、延喜式といった日本の古典から祭式行事作法、装束の着付け等を幅広くみっちり学ぶことになったのだが、やはり一番難しいのは「祝詞(のりと)作文」であった。特に、神社で神職が読み上げる祝詞には、平仮名が一切無い。全ての単語を、「万葉仮名」という漢字に置き換えて、それをスムーズに作文し、読めなければならない。
簡単な例を挙げると、「申します」ならば「申志摩須」のように。これを長くて原稿用紙2枚程度に、起承転結も含めて作文していくのだ。これがなかなか難しい。しかし、祝詞文例集のようなものも出版されていて、それを流用してしまえば楽ではあるのだが、それでは自分の力がつかない。大変でも辛くても、自分の力であらゆる文献を調べ、自分の手で形にまとめていかなければならない。それでこそ自分の記憶に残り、自信もつくようになるのだということを、生徒の立場として非常に痛感したのである。解答を見てしまえば、分かった気にはなるけれども自分で解決する力には繋がっていないのである。
で、今回中学3年生には塾教材の「冬期テキスト」を5教科与えて、期限を決めて自力で取り組ませている。ちまたの学習塾ではこれを冬期講習の授業教材として使用し、1日1単元ずつ解かせて授業時間内に答え合わせしたりするのだが、この冬期テキストはほとんどがこれまでの復習になっているので、私としては辞書や参考書、資料集などを調べつくし、考えつくして1冊仕上げなさい、と生徒に伝えているのである。
しかし、この冬期テキストの取り組みを見ていると個人差がかなり出ていて、やはり毎日長時間自習に来て、分からなくても分からないなりに自分で色々調べたりしている生徒の方が、着実にスキルが身についており、模試でも結果に表れている。そういう意味で、辞書を引けばすぐに分かるものを調べていなかったり、初歩のまた初歩の計算問題を解けていなかったりすると、この子は手を抜いているな、必死ではないな、と私には見えてしまうのである。
私の高校時代の社会科の先生の言葉が耳に残っている。「人生で最も大切なことはなにか。それは、誠実であることだ。至誠だ。」
そう、至誠なのだ。スムーズではなくても、必死で石にかじりついてみなさい、自分に出来る最大限の努力を傾けなさい、そういうことなのだと思う。その努力を、周囲の人間は「必ず」見ている。むしろ学力よりも、あなたがどれだけ誠実であるかということを大人たちは見ているのかもしれない。県立入試まで1ヶ月を切ってしまった。自助努力こそが自分を上へ、上へと引っ張ってくれる。塾はそのための交通整理、道しるべに過ぎない。
P.S
解答を使いながらの学習法もあることはあるが、この方法はまだ中学生には使いこなせないであろう。解答を見て分かった気になっておしまい、というのがオチである。あと1ヶ月弱、必死で頑張って、高校生になったら、自分なりに自分のための自分に合う勉強法(メソッド)を構築して欲しい、と願うばかりである。