礼儀は人間を小さくするものではない

小難しく感じるかもしれないが、よい話だったので書き写してみる。残念ながら出典は不詳。

(抜粋ここから)
もともと礼儀というのは、人間を行動の型にはめてこせこせと小さくするような性質のものではありません。礼儀の礼は、むかしの言葉では「ことわり」と読み、儀は「よそおい」と読んでおります。つまり礼儀は「ことわりのよそおい」でありまして、今日の言葉では「ことわり」は道理、「よそおい」は態度であります。したがって礼儀とは合理的生活態度という意味のものになります。

礼儀はほんとうの意味での自由な境地において、人間の本領を発揮させるものであります。礼儀のひとつの作法を体得すれば、それだけ人は合理的な自由な生活をもつわけであります。生活の不自然不合理から解放されることになります。人は礼儀を心得ませんので臆病になります。はっきりした行動がとれなくなります。不合理不自由な動作が出てくることになるわけであります。

たとえばわたくしどもの日常の生活での礼儀の土台になりますものは姿勢であります。礼儀というものはまずおのれみずからが基本でありまして、対人関係の礼儀はむしろ応用で、末節であるといってもよいのであります。
—(抜粋ここまで)

友達と10時に待ち合わせていたのが、相手が連絡無しに10時15分にやって来たら、待っていた方は不機嫌になる。「遅れるなら、せめてLINEぐらい入れろよ」と。不機嫌になるということは、その後映画を見に行こうとか、ランチをどうするとか、次の段取りへの気分がスムーズに入らない。つまり「気が通らない」

ところが問題なく到着したり、遅れる場合にLINEひとつ「遅れてごめん」と一報出来れば礼儀を失せず、相手の心証も害さず、到着後の次の過程にスムーズに入ることが出来る。お互いの「気が通る」のである。

本文で「礼儀とは合理的生活態度」と示しているのは、気が通ればスムーズに事が運びますよ、と言っているのだ。そこをいちいち「何で連絡寄こさなかったのか?」とか「お前と一緒に行動したくない」とか不愉快や衝突する気持ちが入れば、お互いにとって前進の障害となり、それこそ不合理である。

「礼儀というのは、人間を行動の型にはめてこせこせと小さくするような性質のものではありません」というのも本質を突いた言葉だが、この本質に至らないまま、表層的な「礼儀」の堅苦しいイメージに縛られている現代人は少なくないだろう。

最後の「礼儀というものはまずおのれみずからが基本」の部分。誰も見ていない、自分しかいない所で礼儀を尽くせ、と言っている。塾で先生の前ではきちんとするが、宿題は誰も見ていないから別にいいや、というのは自分に礼儀を尽くしていないということである。

自分に礼儀を尽くさないから、成績も停滞して精神も前進できず、いつまでも自由になれないのである。