例えば小学生に長良川の「鵜飼い」や秋田の「竿灯まつり」を説明するには、YouTubeで該当する映像を見せた方が生徒の理解が早い。
当塾でもタブレット等の端末を正式に導入しようと思わなくもないのだが、生徒の反応を見ていると、映像視聴中はジッと画面を楽しそうに見つめているけれども、映像からアナログの紙の問題に戻った時に、魂が抜けてしまって気分が散漫になるように感じられる。
目の前の問題に向き合うという、ある種の緊張感から解放されたまま、戻ってこない。問題文が頭に入っていかない、終了時間を気にする、公園で友達と遊んでいる時のその子に戻ってしまう、そんな印象である。
何度も書くが、
◎スマートフォン・タブレットは<情報を消費する>端末
◎パソコンは<情報を生み出す>端末
この違いは重要である。<情報を消費する端末>では受け身になりがちで、手を動かさないから「感覚」が弱まり、考えないから「想像力」も弱くなるのである。
昔はテレビの見過ぎで馬鹿になると親に怒られたものだが、今はそれがYouTubeに置き換わっただけだ。私もYouTubeは毎日触れるが、何か他のことをしながら動画をチラ見したり音を聞くのであって、どっぷりYouTubeの画面しか見つめなくなったら馬鹿になると思っている。「うちの子は休校になったら早速YouTube漬けですよ」なんて話をよく聞くが、極めて危険である。
1957年、大宅壮一の「一億総白痴化」はテレビ時代を通り越して、現代への予言である。
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先週、京都駅・JR伊勢丹の美々卯に入った時のこと。
フロアの若い店員2人がひっきりなしにペチャクチャとお喋りをしている。
美々卯といえば、関西で名の知れた店の一つと言ってよい。
「美々卯の店員も落ちてきたな」
会計時にその店員の顔を見ると20代前半、純朴そうな表情をしている。
恐らく、自分がどういう立場にいるのか、という<感覚>がつかめないのだろう。
まして今のご時世に飲食店の店員がペチャクチャと私語をすることの不潔さ。
「飛沫」という言葉も耳にしない訳ではないだろうに、自分の行動がどういう危険を呼ぶのかという<想像>がつかめない。
なぜ自分は店頭で客に検温をさせているのか。なぜ自分は客にアルコール消毒をさせているのか。そういったことが、会社から指示されたマニュアルに従っているだけで<感覚>としてその真意を会得することが出来ないのだろう。
最新の英語教育、最新のデジタル教育と、宣伝文句はまばゆいが、実際問題として商売人の宣伝文句に踊らされているだけで、「あれも」「これも」と本質の見えなくなった現代人が<感覚>と<想像力>を削がれつつあるのは間違いない。
美々卯のこの店員たちは現代教育の産物であり、それは一面において現代教育の失敗を意味する。