『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ~その2

安岡正篤先生の「現代活学講話選集」より続き。

威厳と恩情を並び行うのが人君の道でありまして、どちらかに偏ってはいけません。君子に対しては恩情を主として接し、小人には平生もっぱら威厳をもって臨まなければなりませんが、ときには恩情を施して、怨みを避ける心構えが必要です。(P.113)

厳しさと優しさをどのように使い分けるか、の話。厳しすぎて怨みを買ってしまうのも良くない。

小人を使うにあたっては、あまり罪を責めすぎますと必ず弊害が生じます。たとえ罪を犯しても、自分の罪過を納得して罪に服させるためには、少々の過ちがあっても、すぐにとがめないで、罪が外面に表れるまで待ってやるのがよろしい。追いつめられると、獣ですら反撃します。まして人間にあっては当然のことであります。(P.114)

これは親子関係で活用できる考え方。子供に問題があるからといって、あまりに細かく問題点を問い詰めすぎると反作用が起きる。ある程度子供を泳がせて、本人が痛い思いをするのを待つのもひとつの考え方と。

当塾も同様で、私が生徒を強めに注意する時は問題点が3つ以上重なったとき。宿題が雑、それだけなら静観する。開始時刻ギリギリに来塾する、それだけなら静観する。一事が万事でそういう生徒は細かい過失を重ねていくから、過失が重なった段階で注意を入れる。

少々の過ちや咎(とが)があっても、罪の明らかに外に出るのを待ったほうがよろしい。あまり突っついてはいけない。自然に発する時期を待たなければいけない。これは病気の治療も同じことです。病気を診察して、あまり早く攻めるといけない。自然に誘発してそれを処理するようにしていかなければなりません。経験を積んだ老医は病に逆らわんでうまく病を治める。せっかちの医者、経験の足りない医者はすぐ局所投薬をして、やり損なう。(P.115)

本人のモチベーションにもよるが、ちょっとした成績の落ち込みで改善の手を入れるより、成績が落ちるところまで落ちてから手を入れた方が指導効果が出易かったりする。もちろん必ずしも、ではないが。

ある時期が来て、これはいけないと思うと利にさとい小人はすぐ態度を改める。上っ面を変える、そして大人しくついていく。これはいまのジャーナリズムを見ておるとよくわかる。時勢の変化に非常に敏感であります。

世の中が少しだらしなくなって、政府が迎合的になると、もうすぐにつけあがる。ところが政府が峻厳(しゅんげん)になってきて、やるなと思ったら、この連中はすぐに看板の塗り替えをやってついていく。政府が一つの確信を持って、こう行くんだと本当に打ち出したら、日本のマスコミ・ジャーナリズムはぐっと変わる。ただこうした活きたやり取りが、現実の政治家たちがどこまでできるかということです。(P.116)

これは政治的な話なので多くは書かないが、テレビのニュースやワイドショーの出演者の顔ぶれの変遷を見ていると、テレビ局はかなりカメレオンだな、と思う。比較的左寄りのMBS(TBS系)の情報番組にこういうコメンテーターを呼ぶのか、と驚かされることもつい先日あった。安岡先生がこの話をされた昭和40年代と現在と、基本的な構造は変わっていないということだろう。

政治家や武力を持った人が、考えを思い切って改め、徹底的な人類救済会議、世界平和会議でもやり、そして軍縮どころか武力放棄というところまでやる時期にいかんと、人類は大災厄を受けると思う。宇宙開発を地球開発にしなければならんと思う。宇宙開発というのは実は宇宙を利用して敵国を壊滅させるための研究であるから、宇宙の平和利用条約なんて結ばれたけれど、あれは一番恐るべき条約であります。

私はこのごろ、政治家や外国から来る論客に対して、宇宙開発はもういい、地球開発に一つ変えようじゃないかとしきりに提案しておる。技術や手段手法じゃなくて、いまや人間の心の問題、政治家の心の問題、道徳の問題になってきたと思うからであります。(P.127)

昭和40年代にこういった話題をされていたとは、安岡先生の先見の明であり、慧眼としか言いようがない。「宇宙開発というのは実は宇宙を利用して敵国を壊滅させるための研究である」というのはまさにそうだと思う。真偽のほどは兎も角、興味があれば「HAARP」で検索してみよう。

英雄豪傑は世の中と人間についての深い道理は知らず、自分の才幹と気魄(きはく)に任せてやってのけます。ところが君子は、義理は心得ておりますものの、多くは才幹と気魄に欠けておりますところから、情勢判断を誤るのであります。それゆえ、豪傑の資質と聖賢の学との二つを兼ね備えなければ、大事業を成し遂げることはできません。

英雄豪傑というものは、悲しく痛ましい出来事の渦中にあって一向に意に介さず、失敗してもそれによって勝利をつかむ活手段を心得ておるものであり、何か世間に悪い事でも起これば、それによって一大事をやり出すものであります。それに対して君子は現実を飛躍した空虚なことは考えず、貧賤に素し、富貴のときは富貴に素し、自分自身が納得した生き方をする、これこそ君子の君子たる所以であります。(P.159)

大胆にして繊細、繊細にして大胆。この両方が同時に必要、と。

君子はことさらに問題をむずかしくしない。いかなる境地においても晏如(あんじょ:安らかで落ち着いている)として簡単に把握する。自分はこうしなければならないという絶対の境地に安んじるのみであります。きわめて普遍的で平凡であるが、その意は非常に深い。(P.161)

『論語』に「博文約礼<はくぶんやくれい:君子は博(ひろ)く文を学びて之(これ)を約するに礼を以てせば、また以て畔(そむ)かざるべきか>」とあるが、「自分が理解したことをシンプルに整理できることが大切だよ」と解釈できる。頭の中を整理する習慣をつけよう、とも読める。トラブルが起こっても、シンプルに処理して解決していく。偏差値の高低とは関係なく、頭のよい人とはこういう人物を指すのだろう。

出典:「先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ」(安岡正篤・著、PHP文庫)