学生講師の頃から当塾の開塾の頃まで「先生は雑談をするものだ」と私自身信じていた。生徒が笑顔になるように楽しくてタメになる話題を、と何かにつけ考えていた。
今になって思うに、それは他人から給料をもらっていた時のこと。自分で経営するようになってからは、そういった表向きの楽しさは不要ではないか、と思うようになった。それは、給料をもらっていた頃は、結局自動的に給料が出てくるから自分としては半分無責任でいられるが、自分で授業料を稼がなければならなくなってからは、結果または何らかのメリットを生徒に対して必ず出さないといけない。
となれば、楽しいとか楽しくないといった表向きの喜怒哀楽ではなく、塾で生徒が過ごす時間は本質的に意味のある1分1秒でなければならない、となる。当然、時には厳しさも必要になるし、それは生徒に対する厳しさだけでなく、私の自分自身に対する厳しさも求められるということである。
現在の当塾では生徒と私語はほとんど交わさないが、これには理由がある。私語を交わしても楽しく次に繋がればよいのだが、封建的な価値観が崩れた現代でもあり、一度ボーダーを下げてしまうと、変な無礼講の感覚が生徒の中で始まり、適度な緊張感を取り戻せなくなる。これは現代日本人の重大な病気といってよいだろう。
従って、当塾で生徒と楽しく私語を交わすのは卒塾後でよいと考えている。もちろん、軽い会話をしない分、生徒の状況把握のために表情、声のトーン、答案用紙の筆致といった私語以外の情報に目と耳を澄ましていることは言うまでもない。
さて、本質的に「楽しい」「面白い」とは、生徒がその取り組みの当事者になっているかどうか。これに尽きる。
仕事だってそうだろう。上司に言われたから、取引先に求められたから、という仕事はやはり気分が乗らない。自分で発案し、自分で流れを描き、自分で結果に向かって落とし込んでいく仕事ほど面白いものはない。
そこには上っ面の笑顔や楽しさとは無縁の奥深い世界が広がっている。