論語と算盤~その1

幕末から昭和初期を駆け抜けた渋沢栄一。現在のみずほ銀行、王子製紙、いすゞ自動車、理化学研究所、東京証券取引所、一橋大学、京阪電鉄をはじめ約500の企業・団体の設立に関わった「日本資本主義の父」である。

無事撮影が始まるのか分からないが、来年のNHK大河ドラマの主人公は「渋沢栄一」であり、2024年度からは1万円札の肖像画も「福沢諭吉」から「渋沢栄一」に変更される。『あーあ、諭吉が飛んでいっちゃった(1万円使っちゃったよ)』も『あーあ、栄一が飛んでいっちゃった』になっていくのであろうか。

今から約2600年前、孔子と弟子たちの言行録である『論語』。その『論語』を通じた経営哲学についてまとめられた『論語と算盤(そろばん)』を読んでみよう。

※以下引用:『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一・著、守屋淳・訳 ちくま新書)より。

【誠実】
私の主義は「何事も誠実さを基準とする」ということに外ならない。(P.40)
千里の道も一歩から。自分は今よりもっと大きなことをする人間だと思っていてもその大きなことは微々たるものを集積したもの。どんな場合も、些細なことを軽蔑せず、勤勉に、忠実に、誠意をこめて完全にやり遂げようとすべきだ。(P.50)

【志】
自分の長所とするところ、短所とするところを細かく比較考察し、その最も得意とするところに向かって志を定めるのがよい。(P.51)

【常識】
常識とはどのようなものか。常識の原則「智・情・意」について述べてみたい。

まず「智」。人として知恵が充分に発達していないと物事を見分ける能力に不足してしまう。物事の善悪やプラス面とマイナス面を見抜けなければ、どれだけ学識があっても良いことを良いと認めたり、プラスになることをプラスだと見抜いて、それを採ることができない。学問が宝の持ち腐れに終わってしまう。

しかし、そこに「情」がうまく入ってこないと「智」の能力は十分に発揮されない。「智」ばかりが膨れ上がって情愛の薄い人間を想像してみよう。自分の利益のためには他人を突き飛ばしても蹴飛ばしても気にしない、そんな風になってしまう。

知恵が働く人は、何事に対しても原因と結果を見抜き、今後どうなるかを見通せるものだ。このような人物に情愛がなければ、たまったものではない。見通した結果までの筋道を悪用し、自分が良ければそれで良いという形でやり通してしまう。この場合、他人に降りかかる迷惑や痛みなど、何も思わないほど極端になりかねない。そのバランスの悪さを調和していくのが「情」だ。

しかし「情」にも欠点があり、情は瞬間的にわき上がるため時には流されてしまう。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛(いと)しさ、憎しみ、欲望といった感情は心の他の個所を使ってコントロールしなければ、感情に走り過ぎる弊害を招く。そこで「意志」の必要性が生じてくるのである。動きやすい感情をコントロールするのは強い意志より他にはない。強い意志さえあれば、人生において大きな強みを持つことになる。

しかし、意志ばかり強くて、他の「情」や「智」が伴わないと単なる頑固者や強情者になってしまう。根拠なく自信ばかり持って、自分の主張が間違っていても我を押し通そうとする。強い意志の上に聡明な知恵を持ち、これを情愛で調節する。更に三つをバランスよく配合して成長させてこそ、初めて完全な常識となるのである。

現代の人は口癖のように「意志を強く持て」という。しかし、意志ばかり強くても困り者でしかない。「猪(いのしし)武者(むしゃ)(突き進むことしか知らない武者)」のような人間になっては、社会で役に立つ人物とはいえないのである。(P.66-68)

【習慣】
習慣とは普段からの振る舞いが積み重なって、身に染みついたものだ。このため、自分の心の働きに対しても習慣は影響を及ぼす。悪い習慣を多く持つと悪人となり、よい習慣を多く身につけると善人になるというように、最終的にその人の人格にも関係してくる。だからこそ、普段からよい習慣を身につけるように心掛けるのは、人として社会で生きていくために大切なことだろう。

また、習慣は他人にも感染する。ややもすれば人は他人の習慣を真似したがったりもする。この感染する力というのは良い習慣ばかりでなく、悪い習慣も当てはまる。大いに気をつけなければならない。(P.73)

幼少の頃から青年期までは、最も習慣が身につきやすい。だからこそ、この時期を逃さず良い習慣を身につけ、それを個性にまで高めたいものである。私は青年時代に家出をして天下を流浪し、比較的気ままな生活をしたことが習慣となってしまい、後々までその悪い癖が抜けず苦労した。ただし日々悪い習慣を直したいという強い思いから、大部分はこれを直すことができたつもりではある。悪いと知りながらも改められないのは、自分に打ち克とうとする心が足りないということだ。

私の経験から言えば、習慣は老人になっても重視しなければならない。青年時代に身につけた悪い習慣でさえ老後の今日になって努力すれば改められる。尚更「自分に克つ」という心を持ち、身を引き締めなければならない。(P.74)

私は今年(大正2年・1913)で74歳になる老人であるが全くのヒマになるわけにもいかず、自分で作った銀行は今でもその面倒を見ている。このように年老いてからや、逆に青年でも勉強の心を失えばその人は進歩や成長がおぼつかなくなる。同時に、そんな勉強をしない国民によって支えられる国家は繁栄も発達もできなくなる。

私も普段から勉強家であろうと努めている。実際に一日も職務を怠ることがない。毎朝、七時少し前に起きて、来訪者に面会するよう努めている。私のように70歳を超える老境に入ってもまだまだ怠ることが無いのだから、若い人々には大いに勉強してもらわなければならない。一旦怠けてしまえば最後まで怠けてしまい、怠けていて好結果が生まれることなど決してないのだ。怠けた結果はやはり怠けることであり、それがますます甚だしくなるのがオチだ。だからこそ、人はよい習慣を身につけなければならない。つまり、勤勉や努力の習慣が必要なのだ。

【実践】
孔子は「口ばかりの奴は嫌いだよ」と答えている。「口ばかりで、実践できない者はダメだ」ということだ。机に座って読書するだけを学問だと思うのは全く間違っている。要するに普段の行いが大事なのだ。だからこそ私は、全ての人に勉強を続けることを希望するのと同時に、生活の中から学ぶ心がけを失わないで欲しいと思うのである。(P.80)

【道徳】
私が常に希望しているのは、「物事を進展させたい」「モノの豊かさを実現したい」という欲望を、まず人は心に抱き続ける一方で、その欲望を実践に移していくために道理を持って欲しいということなのだ。道理とは社会の基本的な道徳をバランスよく推し進めていくことに外ならない。(P.89)

【利益】
人情の弱点として、利益が欲しいという思いが勝って、下手をすると富を先にして道義を後にするような弊害が生まれてしまう。それが行きすぎると金銭を万能な物として考えてしまい、大切な精神の問題を忘れ、モノの奴隷になりやすい。(P.99)

【修養】
自分を磨くことはどこまで続ければよいのかというと、これは際限がない。ただし、この時に気をつけなければならないのは、頭でっかちになってしまうことだ。自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。(P.134)

自分を磨こうとする者は、決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持って進んでいくことを心より希望する。現代において自分を磨くこととは、現実の中での努力と勤勉によって、知恵や道徳を完璧にしていくことなのだ。(P.138)

【教育】
今の教育は、知恵や知識を身につけることばかりに走ってしまい、精神力を鍛える機会が乏しくなっている。だから、それを補うために自分磨きが必要だ。自分を磨くというのは、精神も知恵も知識も、身体も行いもみな向上するよう鍛錬することなのだ。これは青年も老人も共にやらなければならない。(P.141)

年単位で長期化するであろう新型コロナウイルス感染症。
従来通りの経済活動が困難になり、形骸化してしまったもの、上っ面のもの、人間の成長に資さないモノ・コトはこれから淘汰されやすくなるだろう。

外から与えられる刺激、楽しみに一喜一憂したり右往左往するのではなく、「こころ」を知り、自分の内面を充実させることが大切になっていく。

※経済的な不安から世情が不安定になります。往復の通塾の交通安全、防犯に充分気をつけて下さい。
(君子危うきに近寄らず。常に安全を選択し、自分から危険に近寄らないように)

※『環境を変えたら自分ができると思っているかもしれないけど、やる人はどの環境にいても絶対にやるからな。与えられた環境で何もしていないお前は他へ行っても何もできない』
https://bunshun.jp/articles/-/37114