講孟箚記(下)

「講孟箚記(こうもうさっき)」は江戸時代の末期、吉田松陰による『孟子』についての講義をまとめた書物。


◎『孫子』軍形篇に、勝利の戦というものは、戦う前に勝利の道を得てそれから戦うものであるが、敗北の戦というものは、まず戦いを始めてそれから勝利の道を見出そうとするものである、とある。兵術の問題も学問の問題も、異なるところはないものである。(P.404)

孫子の兵法「戦わずして勝つ」の話。「戦わない」のではなく、「戦ったら必ず勝つ」という意味だ。徹底的に事前の準備を重ねて、その段階で既に勝たない訳がないという状態まで完成度を高める。だから、いざ戦ったら必ず勝つ。これが「戦わずして勝つ」。中間・期末テストも受験も同じことで、生徒の事前の取り組みを見ていれば、もうその時点で結果は予測でき、テストを受けなくても決着がついてしまっている、と言えるのだ。


◎孔子が「過(あやま)ちを観(み)て仁を知る」、過ちによってその人の仁・不仁がわかるものだ、といわれた。過ちは、不用意の際におかしてしまうものである。万事、人は不用意のところで本心を示すものであるから、よく慎まねばならない。これを慎もうとするならば、平生において独りを慎み(他人の見ていないところでも自分の行いを慎むこと)、誠を積み重ねることに努力する外に道はない。不覚をとらぬようにと思うならば、平生における警戒準備がたいせつである。(P.483)

例えば玄関で靴を揃えることにしても、日常からその辺りをきちんとしておく習慣が身に付いていれば、いざ焦ってしまう場面でも無意識のうちにきちんと出来ていたりするものだ。だからこそ「独を慎む」、つまり、普段から誰も見ていない時でも自分を律することが大切だ。全て自分に跳ね返ってくるから。


◎仁とは人の本質である。人でなければ仁はない。禽(とり)・獣(けもの)を見ればよくわかる。仁がなければ人でない。禽・獣に近いものになってしまう。されば、必ず仁と人とが一体となって、始めて道ということができるのである。世のなかには、人でありながら仁でないものが多い。(P.499)

これでも松陰先生としては相当穏やかな言い方をされている。「禽・獣に近いものに」と仰っているが、「仁」でなければ「禽・獣そのもの」だろう。下手をすると禽・獣の方がまだマシかもしれない。

ある家族に殺人事件が起きた、犯人は警察に勤務するその家の主人だった、と、何だか昨今は社会が混迷の道を突き進んでいるようにも思える。近頃書店に行くと「う○こドリル」なる「う○こ」になぞらえた漢字練習帳のポスターが大きく貼り出されていたりして、私個人の印象としてはその品の無さに「世も末」だなと思ってしまう。テレビやラジオをつければ過払い金のCMばかりであるし、金のためなら何でもあり、のような風潮にも説明しようのない違和感をおぼえずにはいられない。

そんなこんなで本能のままに動く動物と、知性・理性をもった人間との違い、ということを一人ひとりが考えて行動していかなければならないと思う。だんだん遠大な話になってきたが、手近なところで言うと、塾の宿題をひとつずつ心をこめて丁寧に行うことも、「仁」の道に通じるはずだ。

※引用文献:「講孟箚記(下)」(吉田松陰・著、近藤啓吾・全訳注、講談社学術文庫)