ものには道理・筋道がある

母が亡くなって、ちょうど今月17日で一年を迎えた。昨年は本人の生前の意向もあり、葬儀の形は取らずにお別れの会ということで祭壇も作らず、近しい人たちに花を持ち寄ってもらって棺を花で埋め尽くして荼毘(だび=火葬)に付した。

当時は私自身もその形がすっきりしていて良いだろうと考えたのだが、今年7月に別件で馬込斎場での比較的大規模な神葬祭を奉仕させていただいてからは「何で母の時にしっかりと葬儀をして見送ってあげなかったのか」という後悔に見舞われるようになってしまった。

先日の読売新聞の記事によると、2014年の調査で従来型の葬儀の割合が全国で42%。東京都内ではこれが34%までに低下し、宗教形式を取らない家族葬、私の母のように「病院→葬儀屋(保管・お別れの会)→火葬場」という直葬がほぼ主流となりつつある。(直葬で諸費用は約30万円だった)

一年を経て思ったことは、葬儀というのは故人の生前の要望も大事だが、見送る側の人間にとっての「納得」の問題でもある。儀礼が軽視されつつある時代だが、儀礼をもって葬儀を行うことは、ひとつの伝統的な形式に則って「型(かた)」を視覚化させることで、見送る側も気持ちの区切りをつけることが出来るし、故人に対しても「次の世界に行かねば」という認識を明確に持たせる意味をもつ。

繰り返すが儀礼の目的は「型」を示すということであり、「気持ち」は目に見えず流動的なものだが、その「気持ち」を「型」に流し込むことで非定量的な「気持ち」を目に見えるようにさせて、生きている人間同士や故人も交えた「感情の共有」の具現化を行う。「悲しいですね」「私は悲しみました」と口で言うだけでは、それがどの程度のものなのか、具体的に相手に伝わらないからだ。

ということで小難しい話になったが、一年祭(一周忌のことを神道では一年祭と呼ぶ)は出来る範囲できちんと本格的にしようと思い、先週の23日は教室を一日休ませてもらって、自宅での一年祭、墓地での納骨祭を行ってきた。

納骨祭(のうこつさい)の式次第はこうである。


1.修祓(しゅばつ)→場内ならびに参列者の祓い清め
2.納骨(のうこつ)
3.斎主一拝(さいしゅいっぱい)→これから祭事を始めさせて頂きます、の拝礼
4.献饌(けんせん)→お供えものをどうぞ、の儀
5.祭詞奏上(さいしそうじょう)→祭事の目的・意義をお伝えする
6.散供(さんく)→土地の神さまにお供え物を捧げる(まく)
7.玉串奉奠(たまぐしほうてん)→榊(さかき)の枝に気持ちを載せて捧げる
8.撤饌(てっせん)→お供え物を下げる
9.斎主一拝(さいしゅいっぱい)→祭事を終わります、の拝礼

始めに場内や身を清め、一礼で皆の気持ちを整える。そしてお供え物を捧げて、言葉で祭事の目的・意義をお伝えする。そして墓地を守る精霊に至るまで供え物を捧げて、玉串(たまぐし)をいう榊を捧げることで参列者の気持ち(見えないもの)を物質化(視覚化)させて具体的に相手に届ける。お供えを下げて、改めて皆の気持ちを一つにして終了の拝礼をし、一連の祭事が完了する。

一つひとつの行動に意味があり、道理にかなって進めていることがお分かり頂けるだろう。(七五三や地鎮祭などでも基本的には同じ流れ)

納骨祭の前に自宅で行った一年祭では、

「辞別伎底(ことわきて)○○刀自命乃(○○のとじのみことの)御霊乃(みたまの)御前尓(みまへに)白左久(まをさく) 今日与里波(きょうよりは)遠伎近伎(とほきちかき)御祖先等尓(みおやたちに)神習比(かむならひ)御心乎合世底(みこころをあはせて) 此乃家乃(これのいえの)永伎守里神登(ながきまもりがみと) 清清志久(すがすがしく)成志幸閉給閉登(なしさきはへたまへと) 慎美敬比母白須(つつしみゐやまひもまをす)」

(※このように送り仮名を漢字で表記することを万葉仮名という。送り仮名は歴史的仮名遣いを用いている)

・・・「○○さんへ。今日からは新旧のご先祖さまを見習いながら歩調を合わせて、祖霊(神)として末永く私たちを見守ってくださいね、どうかお願いします」という一節を祭詞に付け加え、母へ「これからは祖霊(神)として頑張るのよ!」というお願いであり応援メッセージのようなものを伝えることで、死後一年を経て、神上(かみあが)りして故人も生きている私たちも気持ちの区切りをつける「型」を示した。全て道理・筋道のなかで描いているストーリーの一つである。

このように見た時に、例えば中学数学で途中式を次々に書いて答えを求めたり、また証明問題で仮定を挙げて合同条件・相似条件を用いながら結論を導いて行くということは、是れ結局「ものの道理・筋道」を学んでいる、または「ものの道理・筋道」を習得する訓練をしているのだな、ということに気づかされ、学問の崇高さ、美しさに改めて感じ入ってしまった。

数学が苦手な生徒の中には、例えば (x-6)/3+(x+8)/3=(x-6)+(x+8)=2x+2 としてしまう者がいる。おいおい、分母の3はどこに行ったのか。このように、分母が突然消えるわけが無いのが数学で、数学の途中式の展開は、すべてに意味があり、筋道が貫かれている。突然変異で数字や文字が天から降りてきたり、行方不明になることは無いのだ。

母の一連の支度をしながら、この世には「ものの道理と筋道」があるのだということに改めて気づかされ、学校で学んでいる学問、つまり勉強そのものがまさに「ものの道理と筋道」の会得であることに腑に落ちた。道理と筋道を踏まえて一つひとつの人生の場面を処理していけば、人の道から外れた生き方から極力遠ざかることも出来るのかもしれない。

【凡そ学をなすの要は、己が為にするにあり(学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある)】

と吉田松陰先生が「講孟余話」の中で仰っているが、「自己を磨き自己を確立する」とは「ものの道理・筋道」を知ることに他ならないだろう。