吉田松陰・講孟箚記(上)

『講孟箚記(こうもうさっき)』は江戸時代末期、吉田松陰による『孟子』についての講義をまとめた記録。『留魂録』によると、「”箚”は針であって、文章を精読する場合、針を皮膚に刺し鮮血がほとばしるように明確に理解するのでなければならぬ」と松陰自身がそのタイトルについて解説している。

ということで、気になった部分を抜粋してみよう。


◎学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。(P.129)

短絡的に言うと「学習習慣」ということでもあり、また行動を「一貫させる」ということでもあるだろう。気まぐれに「したり止めたり」していては人生にとっては「百害あって一利なし」なのである。


◎今日、「師の道」はますます廃(すた)れてゆく。そこでわたくしは、何が故にそうなったかの原因を洞察して、また一つの考えを得た。それは、だいたいにおいて人々が気楽に師につき、しかもよくその師を選ばぬためであって、そのために「師の道」が軽くなるのである。故に、「師の道」を興そうと思うならば、安易に師となるべきではなく、安易に師につくべきではない。必ず真に教えるべきことがあって師となり、真に学ぶべきことがあって師につくべきである。(P.220)

初富駅の周辺にもポコポコと雨後のたけのこのように学習塾が生まれているが、はっきり言ってプロの指導者が増えているわけではない。更にはっきり言って、大半はド素人がフランチャイズのシステムに乗って「先生面(ヅラ)」をしているだけである。そういう風に自称「先生」が増えていくとますます「師の道」は軽くなる一方だし、その価値も低くなる。神尾塾は軽んじられないプロ道(どう)を目指していきたいと強く願っている。


◎「恥」の一字こそ、最も肝要のことばであって、それ故に「人以て恥なかるべからず」、人は恥じる心がなければならぬ、「恥の人に於けるや大なり」、恥じる心というものは、人にとって極めて大切のものである、といっているのである。(P.296)

テストで低い点数を取ったら恥ずかしい、のように、このまた「恥」の感覚も年々薄くなる一方なのではないか。「恥」ということは人間が人間であるための(動物とは異なるという)最後の砦(とりで)のようなものではないか。


◎「人々、其の親(しん)を親とし、其の長を長として、天下平(たひら)かなり」の語こそ、天下の至論である。君が君らしくし臣が臣らしくする。父が父らしくし子が子らしくする。兄が兄らしく弟が弟らしくする。夫が夫らしくし妻が妻らしくする。このようであるならば、天下は太平である。天下が太平でないのは、君が君らしくないために臣が臣らしくせず、臣が臣らしくしないために君が君らしくしないからである。君も君らしくせず、臣も臣らしくしない、この二つが重なって常に天下の平和が乱れて来るのである。父子・兄弟・夫婦の関係においても、みな同じ道理である。もし君が君らしくなくても臣が臣らしくするならば、やはり天下の太平は保たれる。このところが、太平実現の道の入口である。君は君としての道を尽して臣を感奮(かんぷん)させるべきであり、臣は臣としての道を尽して君を感奮させるべきである。父子・兄弟・夫婦の関係においても、同じ道理である。(P.312)

最近、公立中学校の学期末テストの答案を見ていると、「2学期もありがとうございました!」などと、生徒ではなく【先生が】答案用紙の下部または裏面にメッセージを書き込んでいるのを目にする。何でそんなに学校の先生が生徒に気を遣わないといけないの???私には理解出来ない。

学校の先生は学校の先生の仕事を着実にこなして堂々としていれば良いのだ。生徒に媚びる必要もない。なぜ学校の先生が「ありがとうございました」と、通知表ならばまだしも、答案に書かなければならないのか。先生は先生らしく、生徒は生徒らしく、この立ち位置が不明瞭になると世の中は混迷をきたす。


◎学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。自己を磨くためにする学問は君子の学であり、人の役に立つためにする学問は小人の学である。そして自己を磨くためにする学問は、人の師となることを好むものでないのに、自然に人から尊敬されて師となるものであり、人に役立つためにする学問は、人の師となりたいと思うものの、結局、師となる資格が身につかない。それ故に「知識だけの学問では、師となる価値がない」というのである。(P.334)

例えば「因数分解」の計算をすることも学問だし、例えば先日の糸魚川の大火の報道を見て「何でこんなことになるのか」と自分なりに調べて考察してみることも学問だ。ともすれば、世の中の全てのことで学問でないものは存在しないのであって、ここからが学問、ここからは学問でない、と線引き出来るものでもない。自分が高みに上ろうとすればいくらでも上っていけるのがこの世の中で、自分が日頃目にする事象がすべて学問につながるように心掛けたいものだ。また、松陰先生のおっしゃる「知識だけの学問では、師となる価値がない」のように、味のある、深みのある人間性を培っていきたいものである。


◎人の毀誉(きよ)を問題とせずに、自身を磨き真実を尽し、ことばを気楽に口にせず、実践をもって自身の責任とし、人の師となることを好まずに、自身を磨くためにするところの実学を修めるべきことを述べた。主意はいずれも似ていて、みな自身を磨き真実に力を尽すことを教えているのである。(P.334)

先日、JALに乗ったら最後尾のCAがペチャクチャと着陸までずっと私語を交わしていてうるさかった。LCCならまだしも、フルサービスキャリアの航空会社でもこんなことがあるのかと驚いてしまった。業務上の会話ならばともかく、勤務中におしゃべりをするということは仕事に集中していないということで、仕事に集中していないということは業務において気づくべき気づきも得られないことになるので、ひいてはそれが安全の低下につながり、事故をも招きかねない。だから、時と場合に応じておしゃべりを楽しむことは大切だが、基本的には言葉を控える訓練も日常から必要だろう。「独を慎(つつし)む」という言葉もそういうことを指していると思う。

神尾塾では生徒同士の私語が一切無いが、むしろ、塾内で生徒同士がおしゃべりする必要がどこにあるの???生徒は自分の課題、自分の人生と真正面から向き合うべきであって、そのための環境、気づきを用意するのが塾の役割の一つだと考えている。でも、世間全般を見渡せば、おしゃべりにあふれた塾は多いようだ(実際、神尾塾と合流する前の初富教室の多くの生徒がそうだった)。


◎書物を読むに当っては、その文の主意が何であるかを観ることが肝要である。(P.355)

これは大事。人と話をしていても、相手が言いたい要点は何なのかを考えながら話を聞くことが大切。本を読むのでも、ただ文字を目で追うだけでなく、その要所はどこかと探りながら、大切と思われるところにじっくりを目線を置き、さほどでもない所は走り読みをする。これは速読のコツとも言えるだろう。決して3行をまとめて斜め読みするとか、ちまたの速読術の類に惑わされることもないのだ。


◎学問の道は、「人の禽獣(きんじゅう)と異る所以(ゆえん)」すなわち人と禽獣と、どこが違っているかという点を知ることが最も肝要である。両者が異なっている点は、五倫・五常、すなわち人間として守るべき道を守っているか、守っていないかということ以外にはない。同じ人でありながら、これを失ってしまったものを庶民とし、努力してこれを得たものを君子とし、ゆったりとして自然にこれを身に持っているものを聖人とする。この三段階があるが、よし衆人であっても、努力すれば君子となれるし、その努力が実ると、それは聖人に外ならないのである。(P.386)

おしゃべりもそうだが、話したいときに話していたら、それは動物でしかない。話したい時にそれを抑えて、自分の振る舞うべき態度を考えられたら、それが人間なのだろう。


◎「且(か)つ今時の如き、平とせんか乱とせんか。当(まさ)に思ひて得べし」に至り、俄然として古典が古典に止まらず、現実の問題となる。古典を古典としてのみ読み、歴史を歴史としてのみ究(きわ)めることもまた、松陰の志ではなかった。(P.418)

これは訳注者の解説文だが、2,600年前に生きた孔子の『論語』が今現代でも読み継がれているのは、それが古典に留まらない永遠の生命を宿しているからで、古典が古典でないことに気づいた瞬間に、古典の面白さが自分の中にズバッと突き刺さってくるように思う。歴史も同様で、過去の歴史のなかに未来の暗示をくみ取ることも出来、そのように時代を自在にタイムスリップしながら、では今をどう生きるか、ということを考えるのが古典や歴史を学ぶ醍醐味であろう。

※出典:「講孟箚記(上)」
吉田松陰・著、近藤啓吾・全訳注(講談社学術文庫)