真のアクティブ・ラーニング

例えば定期テスト前の中学生に「理科のワーク練習」といったアバウトな課題をあえて出すと、ノートに2-3ページ問題の答えを書いただけで「練習してきました」と堂々と提出してくる生徒は少なくない。「そんな程度で成績が上がるわけ(テストで点数取れるわけ)ないだろうが」と、私は内心想いながら、はてどうしたものか、と次なる課題の出題に思いを巡らせる。

「生徒が自分の頭と手を動かすこと」、これが教育の最大の眼目であるはずだ。

大人があまりに手取り足取りで用意を周到にしてしまえば、その分生徒自身が思考停止に陥るリスクも高まる。

「丸付けした?」「あ、まだしてません」、「問題文ちゃんと読んだ?」「あ、まだ読んでません」、「見直しした?」「あ、まだしてません」。これらの問答は生徒との会話で少なからず起き得るパターンだが、これらは全て生徒の【思考停止】状態を示している。ここから気づきを得て、自発的に改善を心がける生徒には救いがあるが、なかなかそう上手くはいかない。

私でさえ、以前の塾通信で書いたT先生の神葬祭を請け負うにあたって、過去の資料や文献を読み漁っていると、かつて自分が講義を受ける立場だった頃は何も考えずにただボーっと教室に「居ただけ」だなあ、ということを反省する。受け身でいる間は1mmほどの成長もなく、いざ自分が追い込まれて失敗の許されない矢面に立たされたときに、自分から開く教科書の1ページ。この行為にこそ魂がこもり、その行為が自分の腹の中にズドンと入ってくるのだ。

真のアクティブ・ラーニングとは、こういうことである。

生徒が自分で考える、自分で調べる、自分で質問をする、自分でメモをとる、という生徒自身が行為の主体となって学習に取り組む、そういう授業を「受け身」である生徒にいかにもたらすか。これが教育における永遠の課題であろう。

極端に言えば、指導側の教え方や授業の形式は特にこれでなければならない、というものは無い。生徒自身が、自分自身が、意識が高まり、行為の主体となって「どうすればよいだろう」「何をすれば自分を高められるか」という地点まで意識を引き上げることが出来れば、自動的に学ぶ力も高まり、行動が伴っていくからだ。

では、どうすれば意識を高められるのか。これが最も難しいところだが、ひとつはやはり「苦労をする」ことだろう。苦労をして性格が曲がってしまうのは困るが、苦労をしている人は「どうやってこの窮地を切り抜けるか」という問題解決の思考をするようになるので、自分で頭の中に思いをめぐらせて試行錯誤で解決の糸口を探ろうとする。

「苦労」なんて言葉を軽々しく振り回す話にはしたくないが、「可愛い子には旅をさせよ」とは上手く言ったもので、結局「受け身」の強い生徒は苦労の経験が少なかったと言えるだろう。自分が苦労をして頭をフル回転させる前に誰かが防波堤になって守ってくれた、自分がしなくても誰かがしてくれる、という習慣が身についているから、その生徒自身は眠った状態、まだ目覚めていない(物心がついていない)状態から抜け出せない。

この段階では例えば塾でどれだけ課題を与えても効果は得にくく、講義も右の耳から左の耳へと抜けてしまう。逆に、少しでも目覚めた生徒が塾を利用すれば、意識の高まりと指導の工夫の相乗効果で目に見える形で成績にも反映されやすい。

これは理想形ではあるが、全ての生徒がそうなるわけでもないので、少なくとも神尾塾の授業においては、生徒を「見ないようで、見ている」「見ているようで、見ていない」という生徒に依頼心・依存心を起こさせない生徒との距離感とバランス、「自力で調べられることは、調べる」「華麗な解法ではなく、どのような方法でも自力で解ける解答力をつける」「自力で気づけるように、出来る限りヒントを、段階的に出し続ける」というような指導を心がけている。

近年多くの生徒に強く見られる傾向としては、指示されないとノートに名前やタイトルが書けないとか、入塾当初にあいさつや返事がまともに出来ないとか(基本的に改善には3-6ヶ月のスパンで時間を要する)、基本的な正しい習慣が身についていないと思われる生徒も増えている。巷ではアクティブ・ラーニングという言葉が流行っているが、そういう表向きの言葉を追いかけるのではなく、動物から人間に移行させるための基本的なしつけの部分も最重要で、決して忘れてはならない。