熊本地震

「写真撮っちゃってください、塾のためだと思えば撮れるでしょ」


4月25日、ここは熊本市中心部の上通(かみとおり)にある創作ダイニングのお店。建物の躯体には損傷が無かったが、店内は食器・ビン類が散乱し、足の踏み場もない。入口のワインセラーも倒れてガラスの破片があちこちに砕けている。

マスターの村山さんは凄腕の料理人で、和食の修行からこの道に入り、いずれは自分の店を持ちたいということで8年前にこの店をオープンさせた。2年前に「どこにいても自分の哲学は追究出来る」というタイトルで塾通信を書いた、その登場人物がこの村山さんで、当該記事はアルバイトの熊本大学の学生さんに是非読むように、と回覧してくれたらしい。

村山さんいわく、現状ではお店の再開に1ヶ月以上は掛かるだろうとのこと。また、近隣で他店が順次再開したとしても、震災による観光客の減少などにより経営体力が持たず半年・1年後にバタバタと倒れる店が続出するだろう、と。首都圏ではすっかり地震のニュースが影を潜めているが、被災地では正念場がこれから始まると言っても良い。命が助かった、生活の場が確保できた、その次に仕事はどうなる?と、ドミノのように次々に難題が押し寄せてくる。これが震災だ。

村山さんもこの前日まで、10日間車中泊を余儀なくされた。ようやく自宅に戻れるようになったが、その自宅の片付けでさえままならず、生活が確保できなければ店のことにも着手出来ない。今回の熊本地震では損壊家屋が1万棟以上とされているが、仮設住宅や宿泊施設への一時入居は全半壊の住宅所有者が優先となり、全半壊とならずとも玄関のフレームが傾いて扉が閉まらないために避難所や車に避難している人の公的支援は後回しとなる。罹災(りさい)証明書が出たとしても、「一部損壊」では義援金の支給も受けることが出来ず、生活を再建するにも非常に厳しい状況となる。

以下、まとまりがつかなかったのでトピックを分けて書いてみる。

九州自動車道。この日は植木ICから嘉島JCTまでが通行止めだったが、植木から益城空港ICまでは緊急用車両に限って通行が認められていた。博多から高速バスで現地に入ったのだが、高速バスは緊急車両と共に路面の波打つ、一般車通行止めの区間を走行することが出来た。

熊本は市内中心部から東に向かって、中央区、東区、そして甚大な被害の出た益城町と市街地が連続している。意外だったのは、益城町に近い東区の方で「やよい軒」や地元の焼肉屋といった飲食店がほとんど再開していたこと。逆に、市内中心部のマクドナルドやケンタッキー、スターバックスなどが再開されずに飲食出来る店が極めて限られていたのはガスの復旧の遅れのせいだろうか。

26日は市内と阿蘇を結ぶ国道57号線(東バイパス)のロイヤルホストに入ってみた。外看板には「11時~17時の営業で限定メニューのみ」と手書きポスター。店内に入ると、メニューはハンバーグ・ドリアなどの6品目のみで、全品1,080円でドリンクバー付きになっていた。もちろん、ドリンクバーも在庫限り。外に目を向けると、災害復旧の幕を掲げた自衛隊のトラックが頻繁に行き交っていた。

その東バイパス。車で進むと、被害の大きいエリアと被害の少ないエリアが通りの数百メートル単位で変化しているのが分かった。地盤の強弱は局所的に異なるということなのだろう。「わーこの辺りは厳しいわ」「この辺は大丈夫だな」という景色が車窓で繰り返しているのだ。

益城町の北部に位置する熊本空港も再開はしたものの損傷が激しく、天井や壁に大きな亀裂が入り、無理に使用しているように見える。いずれ建て替えになるのかもしれない。益城町の震度7の激震2回がどれだけすさまじかったのか、と背筋が凍る。立入禁止の区画も多く、通路に長いすが置かれ、復旧支援から東京に戻る人々が生ビールを片手に疲れを癒していた姿が印象的。トイレも上水道が復旧していないため「手を洗ったら、必ず消毒して下さい」と消毒薬がトイレの出口に置いてある。


滞在中も、下からズシンと突き上げる揺れにたびたび襲われる。まさに震源が直下なのだ。4月14日以降、余震も1000回を越えている。ビルの、まして上階で仕事や生活をする人は長時間の揺れのために健康を害しやすい。また、4月14日の揺れが本震と思っていた現地の人々にとって16日未明に再び激しい揺れに襲われたことは精神的ダメージに追い討ちをかけており、「また来るのではないか」という恐怖心により今も心身ともに疲れ果てている。

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【日常からしておくべきこと】
「断捨離」ではないが、身の回りの物を日常から減らしておくことも一つの減災に繋がるように思う。また、インターネットの活用、ラジオを聴く習慣など、個人での情報収集力を高めることも生き延びる知恵になるはずだ(この話は別記事の脇阪さんの講演内容につながる)。問題は、地震のあとの3日間。食料、水の確保が日常から3日分出来ているか。いざの時にトイレをどうするか(特に女性)。避難所の配給や炊き出しの情報が出てくるのは、今回の地震を見ても大体3日後だった(NHK、新聞も同様)。だから3日間の備えは何としても自分でしておかなければならない。

【どうしてもパニックになる】
地震直後の民放では「坪井橋が崩落」「竜神橋が崩落」という情報が流れた。ところが実際は崩落していない。上通の北側にある坪井橋は実際、25日も渡れたし無事だった。自分は冷静なつもりでも、必ずパニックを起こしているものだ。地震直後、私は友人に「南海トラフも心配だね」とメールをやり取りしていた。今思えば、これもパニックなのだ。当然流言・デマが人々の間で流れやすくなるのは必至。「自分はパニックを起こしていないかどうか」という自分の精神面を検証することは、日頃(自分が被災地におらずに報道を見るだけの状態の時)からしておくべきだろう。

【オール電化は悪くない?】
今回、ガスが復旧するまでに地震後1週間以上を要した地域が多かった。電気は最も先に復旧する。そして水道、ガスの順だ。水が出てもガスが出なければ風呂に入れない。夏ならば水シャワーでも良いが、寒い時期はそれが出来ない。すると公衆浴場が混雑し、そのための道路渋滞も誘発する。

【質の良いものが残る】
市内中心部に「早野ビル」という古い建物があって、築92年。これが今回の地震でビクともしなかった。地震後「安全確認済」のシールが建物に貼られたぐらいだ。街中を見回しても、新しい建物でも鉄筋が破断しているもの、古い建物でも損傷のないもの、つまり建物の安全度は新しさではなく、頑丈な造りになっているかどうかだ、ということを痛感した。

質の悪いものは壊れていき、質の高いものだけが残っていく。ということはひとつ言えそうだ。