新春講話

平成28年を迎えた。例によって正月三が日、神社の社頭で参拝の方々をお迎えしていたのだが、例えば訪れる子供たちにお菓子を渡すとする。すると、

◎自発的に「ありがとう」と言える子。
◎ご両親、祖父母の方から「ほら、ありがとうって言うんだよ」と諭される子。
◎黙って持って行く子。(一緒にいる家族は何も言わない)

今年も例によって上記の3パターンに分かれた。意外と、3番目のケースが半数近くいる。この数年はこういったことに私も驚かなくなってしまっているが、今年明らかに増えたことを書いてみよう。

30代~40代くらいのご両親が子供を連れてくる。すると、「あっ、おみくじだ!」と声をあげておみくじに突進する。通常は「参拝→おみくじ」という順序が一般的なのだが、いきなりおみくじに手を伸ばす例が今年は随分と多かった。これは子供がそうするのではなく、大人が子供に先んじてそうしているのだ。

中には「おみくじ→写メ」でキャッキャと騒いでいる親子もおり、そういう場合私は「お祓い→お神酒→授与品渡し」をさせて頂く流れをボイコットして、彼らに背中を向けたまま無視せざるを得なかったりする。恐らく、神さまも同じようにされるだろう。

初詣に限らず、墓参りでもお参りをすることが主目的かつ真っ先にすることで、おみくじや絵馬書き、といったことはあくまで後付けのオプションに過ぎない。そういう習慣がないから、今までそういう経験がないから、だから出来ないのだということも言えるだろうが、人として頭の下がる立派な人々と、犬猫に近い、迷いに包まれた人々に人種がくっきりと分かれつつあるような気がしている。「それぐらい経験なくても考えれば分かるだろう」ということも、近年は首を傾げざるを得ない現象に出くわしたりする。

さて。神社で元日の午前0時から祭典を行っているのだが、そこで参拝の皆さんにこういう話をさせていただいた。3点ある。


【全力で努力していると、必ず助けが現れる】
自分に出来る精一杯の努力(但し正しい努力)を日々重ねていると、思わぬタイミングで物心の支援の手が必ず現れる。それは自分の行為が道理に適ったからで、「徳は弧ならず(論語)」だからである。

文字にまとめると難しそうに見えるが、目の前の課題に全力で取り組もう、ということだ。そうすればどこかで誰かが必ずそれを見ているし、予想だにしなかったタイミングで物質面・精神面で救いの手が差し伸べられたりするのだ。


【自分本位になる】
それぞれのひとつの出来事を通して、それが自分にとってどのような学びとなるのかを考える習慣をつける。一つひとつの出来事を困ったこと、迷惑なことではなく「学び」として捉える。また、どちらに転んでも必ず学びとなるのだから、選択することを恐れない。(自分本位と自分勝手は異なる)

当事者意識、当事者感覚を持つ、ということもこの内に入ると思う。そして、誰かにさせられているから、しないとならないから、という義務感で日常の生活や仕事をこなすのではなく、それが自分にとってどういった意味を持つのかということを考えながら、そういう意味で「自分中心」になることが大切だ。自分が一つひとつの出来事の主軸に位置している感覚を持つということ。そうすれば自分と関わる全ての出来事が自分にとっての「学び」となり、それこそ自分が人生の主人公となって一つひとつの出会い、現象、トラブル、一喜一憂の出来事により磨かれて、向上への途をたどることが出来る。


【足るを知る】
基本的に「何事にも感謝をしている自分がいる」という姿勢で日常を過ごす。

私も冒頭で新年の愚痴を書くところから始めたが、これはあくまで一つのネタに過ぎない。日々いろいろなこと、良いことばかりではない不愉快なこと、心の切り裂かれるような出来事に出くわす。しかし、自分の気持ちの根底には常に「感謝」を持っておきたい。今日二本足が健康で目的地まで歩けるのも、コンビニで欲しいものが買えるのも、それはすべて有難いことであり、「足るを知る」の「足る」という部分に注目して、自分がいまどれだけ足りているのか、恵まれているのか、という所に思いを馳せた時、足りない3%に気持ちが引っかかっていても、いや残りの97%は足りているではないか、と足りていることに感謝をしたい。そういう気持ちの持てる自分でありたい。

今年も神尾塾は「一人ひとりに向き合う。人間をつくる。」をテーマに生徒の学力と人格を高め、同時に私自身が学びを進めることを目指します。本年もよろしくお願いします。

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kamiojuku