人格をつくるための学問

中3のT・K君が作文書きました、と持ってきた。

論語を読んで僕は普段の生活習慣がどれだけ大切かを学びました。「人は習慣によって月とすっぽん程の人物の差が出来てしまう」と書かれています。
僕はこの塾に入る前は礼儀のない人間でした。しかし入塾してから自然と礼儀が身に付いてきました。今では家でも無意識に靴をそろえたり、学校でも「お願いします」や「有難うございました」などの言葉が無意識に出て来ます。普段の習慣は、大切だなと思いました。

作文講座で読んだ論語↓

▼陽貨第十七・446 子曰、性相近也。習相遠也。
◎子曰わく、性、相近きなり。習、相遠きなり。
◎孔子が言いました。「人間の本性は元々似たり寄ったりであるが、習慣によって月とすっぽん程の人物の差が出来てしまう」

「牛丼、それは牛の命です」のインパクトが記憶に新しいT・K君だが、上記の作文も至極もっともなことを書いている。

よく神尾塾は勉強よりもむしろ礼儀とかそちら方面にしか関心がないのではないか、と思われてしまいそうだが、勉強もそういったことも車の両輪であるので、どちらが大事ということはない。「どちらも大事」である。

言志後録の「4 儒教の本領」を読んでみよう。

孔子の学問は、まずみずからの修養につとめ、人に接し事に当っては、敬い慎しむ心を忘れないことから、これを広めて天下万民を安んずることに至るまで、専ら実際の事を処する実学である。「書物を学ぶこと。学んだ事を実行すること、真心を尽すこと、偽りのないこと」、の四つの事柄を人々に教えた。そして「常に言うことは、詩経、書経の精神であり、また礼記(らいき)のとおりに礼を執り守ること」であって、必ずしも詩を誦し、書を講読する事のみを専一にするものではなかった。だから、当時の学問をした者は、敏(さと)い者、敏くない者はあったが、各々その器を大成させることが出来たのである。このように人は皆道を学び得るのであって、人によって能、不能の別があるのではない。

ところが後世になると、この孔子の学問は堕落して芸の一途になってしまった。何事もよく知っていたり、一度目を通すとすぐ暗誦するなどというのは芸である。詩文の才があって自由自在に千言のものも、立ち所に書き下すなどは優れた芸である。

このように学問が(人格を作るという根本精神を逸脱して)芸に堕(だ)してしまったので、出来る出来ないの差異が生じた。こうなると学問は始めて躬行(きゅうこう)実践と離れてしまった。世間の人は「だれそれは学問は十分あるが、行いが欠けているとか、だれそれは行は十分であるが、学問が足りない」とかいうようになる。

※出典:「言志四録(二)言志後録」 佐藤一斎・著/川上正光全訳注(講談社学術文庫)

勉強を通して集中力を身につけたり、というのは上記の「躬行実践」の一つなのかな、と思う。集中力がつけば学力も上がるわけで、それこそ車の両輪だ。現代の教育で眼中に置かれているのは、「芸」としての勉強の方が大きい。「学問が人格を作る」ということは、「人格を作るための学問」でなければならないわけで、そうすると字を丁寧に書くとか、椅子を奥まで仕舞うといったことも人格を作るための広義の学問といえるだろう。