突出した才能があるのに学校教育になじめない小中学生を支援する教育プログラム「異才発掘プロジェクト」が東京大学で始まった。
「プロジェクトは数学や音楽など特定の分野で突き抜けた能力を持ちながら、人付き合いが苦手などの理由で不登校になりがちな子どもの才能を開花させるのが目的。学校になじめなかった発明王エジソンや科学者アインシュタインの再来を目指す」と、これは読売新聞の記事。
参加した生徒の例として、以下のようなものが挙げられていた。
◎小3男子:完全不登校。父親が家庭で教えている。小説家志望で文章を書く想像力、表現力、語彙(ごい)力などに優れる。
◎小5男子:漢字のテストが苦手。農業や自給自足に関心が高く、家族が食べる野菜の栽培や保存食作りを行う。
◎小6男子:同級生と話があわず学校の授業内容も物足りないが、絵が得意で、1日に100枚以上描くこともある。
私は不登校を手放しで全面的に肯定するつもりはないが、これまで私が接してきた不登校の生徒の中には、精神的に成熟し過ぎていて、つまり同年代の子どもたちに比べて「老けて」いるために感覚的に周囲と波長が合わずに不登校になっている、と見受けられたケースが少なからずあった。そういう子は年齢を重ねるにつれて肉体年齢が精神年齢に追いついてくるから、年とともに自分自身の違和感が軽減されてくる。子ども時代は「自分が子どもであること」に対しての無意識のつらさを持っていたりする。
また、俗にいう「発達障害」というジャンルで括られている子どもも、その得意・不得意に極端なアンバランスがあるだけで、それなりに独特の能力を持っていることが多い。現在の学校教育では広く浅くバランスのとれた能力が評価されるのだが、彼らは苦手な部分はどうしようもなく苦手だから、一般的にはその出来ない部分に目をつけられて、「この子は出来ない子」という印象で把握されやすい。
数年前に卒塾したN君はその一人で、通常の学習には困難があり、授業中も言葉にならないような小声でブツブツと独り言を発してしまうところがあった。しかし、当時彼がはまっていたポケモンの話をしていたら、暗記したキャラクターをその場で100体以上一気に紙に書き出してしまった。このように奇想天外な所で能力を発揮するのだが、それはなかなか学校の成績に直結しないし、評価の対象になりにくい。だから彼らは自尊心が育まれず、逆に劣等感が膨らんでしまったりする。
このように「異才教室」に選抜されるに至らなくても、多かれ少なかれ独特の能力を持った子たちはいるもので、でも現在の日本の教育システムでは彼らは埋もれたままで、むしろ「学校に行かなければならない」「提出物を仕上げて出さないと成績がつかない」といった形骸的なものを処理することに追われて、その独特の芽を封じ込まれることが多い。
ただし、だ。
そういった埋もれようとしている才能を発掘するのもこれからの社会の大事な役割だが、同時に、発掘されないと外に出てこられない才能というのも、それはそれで、それまでかな、という気がする。先週の塾通信でノーベル物理学賞を受賞された中村修二教授の「好きな事をどんどんやればいい」という話を紹介したが、結局、これに尽きる。
やりたいことがあるならば、好きなことがあるならば、それは人を殺(あや)めるもの、反社会的なものでさえなければ親の目を盗んででもやればいい。これは私の持論。本当にやりたいこと、本当に好きなことがあれば、誰に止められようが人目のつかないところでやるのだろうし、それぐらいの気骨を持った人間でないと表に出てこられないし本物になれない。そこがポイントかな、と思うのだが。