けじめをつける

勉強が上手くいっていない、という生徒を見ていると一つの共通点が浮かび上がってくる。それは、学校のワークを軽視していることが多いということだ。

学校では定期試験になると、多くの場合ワーク提出が課せられる。数か月分をまとめて提出することになるので、その量は数十ページにも及ぶ。しかし、勉強が出来ないという位置づけにいる子たちを観察していると、試験3日前になっても提出すべきワークの範囲が全て空欄だったりする。

今回の期末テストでもそういう生徒が散見された。「はあ、ワーク管理も塾でしなければならないのか」と暗い気持ちになるのだが、数年前も塾の課題だけをして学校の課題を一切行っていなかった生徒を複数名退塾させたことを思い出した。

全国的な統計があるのかどうかは知らないが、私の認識では、ワーク提出を軽視している生徒が増えているように感じている。これは学力層とも関連するだろうが、かつては学力が低くても、それなりに定期試験に恐怖を感じて、分からないなりにワークを埋めて提出する意識をもつ生徒は今よりも多かったように思う。

私の見ている景色が一般的ではないのかもしれないが、少なくとも私の目の前には「試験日程を把握していない生徒」、「定期試験に対する漠然とした恐怖を持っていない生徒」が増えている感覚が否めないのだ。

これまでの塾通信でもたびたび触れてきたが、学力の二極化が進んでいるというのは、その後ろの山にいる子たちの中には「出来ない」のではなくて「やらない」だけの子が少なくない気がするのだ。この点の、やるべきことをやらない人が増えている国にこの国は向かっているのではないか、という、大げさかもしれないが日本人の劣化のようなものがあるような気がするのだ。

「興味が無い」と選挙に行かない人も増えているし、先日は電車に乗ったら車掌アナウンスで「12月14日は衆議院議員選挙があります」と啓発しているのを聞いて驚いた。ここまでしないと人々は選挙に行かなくなってしまったのか、と。

ついでに、NHKで生中継されていた日本記者クラブの党首討論を見ていたら、閉会の際に司会者が「党首のみなさんが退席されるまで、記者のみなさまは席をお立ちにならないようにお願いします」と注意を伝えていた。

「うわー総理大臣もいるような会場でこんな注意をしないといけない時代になったんだ」、と腰が抜けるほど驚いた。登壇者がステージを去るまで客席はそれを見送るのが当然だと私は考えているからだ。

結局、学校のワーク提出も同じで、けじめの問題なのだ。「やることをちゃんとやろうよ」「やる時はちゃんとやろうよ」と。神尾塾では無連絡の遅刻は認めないし、生徒間の私語もありえない。宿題をしなかったら帰宅させるし、それは厳しいと思う人もいるようだが、こんなことは当たり前のことなのだ。楽しさとかそういうことは、その先の話だ。こういうことを大前提とする塾や学校でないと、日本の教育は劣化の一途をたどるだろう。