どこにいても自分の哲学は追究出来る

休塾日といっても事務作業、メール対応、生徒一人ひとりの指導方針の策定、予習、または神社の作業など取り組むべきことが山積みで外でゆっくり食事をする機会もあまりないのだが、それでもごくわずかな隙間を縫って訪れる店はいくつかある。

創作料理の店なのだが、一言でいって「美味しい」。
昨夜は店のマスターと話す機会があったのだが、どうやらそのマスターは自分で全てをしないと気が済まないらしい。これは自己満足とも言っていた。2階建てで40席程度の小さいともいえないお店なのだが、厨房にはマスターしか入らせない。そして、ご飯を茶碗に盛ることでさえもアルバイトにはさせない。全部自分でする。

私がマスターに伝えたのは「技巧派の美味しい店はいくつもある。でも、マスターの料理は1mm単位の細かい仕事をされているというだけではなくて、そこに志、愛情のようなものがふんだんに込められているということ。また、それは手の表と裏のようなもので表裏一体であり、技術と心が同化している。そんな料理はめったに出会ったことがない」という話。

マスターは満面の笑みでこの話を聞いてくれて、まさにわが意を得たりという様子であった。マスター自身も、自分がこれまでに出会った料理人の中で心を感じさせる料理を作れる人間は2人しかいない、と。そして、料理人として仕事を重ねていく中で、どうしても職人から商売人へ転換してしまう人間がほとんどだが、自分は「職人であること」を貫きたい、とのこと。

私にとってはこれまであまり好きでなかった分野の料理が、この店で価値観が逆転してしまったものもある。韓国風のチジミがそうなのだが、これはこの店で食したことで完全に好きになってしまった。私にとっては昔、ゆで玉子が嫌いだったのが、大分別府の地獄めぐりで温泉玉子を食べてから好きになってしまったということと共通していて、その話をマスターにしてみたら、マスターは「それが料理人にとっては勝ったと思える瞬間なのです」と。

この店は創作料理をコンセプトにしているのだが、単なる思い付きとか見た目で食べさせるものではなく、ちょっとした天ぷらとか古典的なメニューを注文しても揚げ方が上手だったりする。なぜかと尋ねてみると、マスターは料理人暦25年だが、和食の修行から始まったということ。そこで基礎を叩き込んで、その上で居酒屋など色々な店を武者修行して回ったらしい。だから、自分の店を持って創作料理の看板を出しても基本となる軸の料理技術を持っているから、一切ブレを感じさせない創作料理に仕上がっているのだ。また、基礎があるから料理に「遊び」の要素を入れても地に足がついている。

どの仕事、または勉強にも通じる話ではないか。基本となる軸があるから、その先の応用がきくのだ。私たちは物事の「基礎」を徹底して学ばなければならない。

マスターはお店を月に2回しか休まない、という。年末年始も元日以外は平常営業をしていたということだ。身体持ちますかと尋ねたが、自分がどんなに朝起きてクタクタの状態になっていたとしても、厨房に入るとピンと気が入ってしまって元気になってしまうのです、と。

これは同じ自営業として私塾にも通じる話だと思った。私も、今日は休もうかなと思うくらい消耗していても、いざ黒板の前に座って生徒を迎え入れると、自分でも不思議なくらいに心身が活性化してきて仕事を全う出来てしまう。それでも無理が重なって11月の私のように体調を崩してしまうこともあるのだが、でもこの「心身の活性化」の感覚は自営業、自己完結を目指す職種の人間にしか味わえない快楽ではあると思う。

「ご飯の盛り付けでさえスタッフには触れさせない」という気持ち、これもよく分かる。周囲から見たら「それぐらいスタッフに任せたら」と思うのだろうが、それは違う。マスターも話していたが『絶対に譲れない線』というものがあるのだ。そして、その境界線を越えてしまうような仕事は予め断って、とにかく自分自身の納得を追究する。

塾に限らず、料理人の世界も一緒なのだと、つまるところどの職種であっても自分の哲学を追い求める場はいくらでもあるのだということを学んだ一夜であった。