自分の中に既に答えはある

中3生はVもぎの過去問を中心に授業を進めているのだが、明らかに気を抜いていると思われる生徒、また、逆に精度高くここまでやってくれるのかと唸(うな)らせられる生徒、それぞれの事態が起こる。一人の生徒に前者後者が入り混じる場合もある。

例えば数学で大問1に計算の小問が6問あるのだが、これと大問2の関数・角度などの一行問題を解けば1問5点で平均点の45点を打ち出せるように構成されている。ところが複数名いるのだが、大問1の計算問題を何問も落としたり、さんざん練習してきた1次関数の問題が解けていなかったり、ここまで来ると塾の責任ではなく、本人の意識の問題としか言いようがなかったりする。そういう場合は最近は連絡ファイルに「手抜き」「乱雑」とそのまま指摘するようにしているが、学校通知表の行動面によい評価が書かれてあったとしても、こういうところで私は「正体見えたり」と思ってしまうのである。出来ないことは仕方が無いが、やれば出来ることを手抜きして出来ない状態で私の元に持ってくるのは本当に許せないのである。

年末のある生徒の授業。前回授業で問題点が複数起こり、それを注意した上で再度宿題を出したのだが、作業はゆっくりのペースで時間が掛かっていたものの、非常に高い精度で国語の読解、英語の長文和訳を行っていた。いわゆる火事場の馬鹿力が出せたのだと思う。

大体の場合、問題を解く基本的な技能はあらかじめ塾で教えているし、学校でも習っている。あとは練習量と解き方のきっかけのようなものをつかませるのが塾の役割であるのだが、それを踏まえて、自分の中に持っているものを出せるか出せないかは自分自身だということなのだ。

だから、いくら垂れ流しのように長時間授業を聞いていても伸びない子は伸びないし、また、自力を少しでも見出せた子は伸びていく。これはもう本人の持って生まれた人間力の差というしかないのかもしれない。自分の中に答えは既にあるのだ、ということを気づかせるために私としては一回一回の授業を腐心して行っている、といったところである。