一昨日の面談でお話しさせていただいたお母様と、『黎明』の話題が少し出てきた。
当塾の基本的なスタンスは葦原先生のこの内容に集約されている。
つまり、生徒自身が答えを自力で出せるように、どれだけ大人がヒントをひねり出せるのか、ということ。
従来型の教育法「あるある」として、解法や答えを教えて、あとは覚えておけ、というスタンスがある。これは解答をインストールしているだけなので、生徒にとっては何の知恵も育まれない。時に、処世術として答えをインストールした方が合理的な場合もあるが、あくまで答えをインストールする方法が主戦術であってはならない。
戦後の教育はよく覚え、生まれつき記憶力の高い者が高い偏差値を獲得して評価される風潮にあったが、それは一部の「志の発達していない(精神的に未熟な)高学歴者」を生む結果にもなり、オリンピックや国のアプリ開発などの事業で「俺にもよこせ」と経費の中抜きにしか関心を持てない一部の大人たちが跋扈してしまったのも、現代日本の不幸な側面と言えよう。
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話は逸れてしまったが、先の葦原先生の論の実践例を挙げてみよう。
一昨日、国語の漢字で「変化に富んだ」に読み仮名をつける問題。「富んだ」が読めない、とその生徒は質問してきた。「とんだ、だよ」と教えてしまえば、それでお仕舞いである。1秒で終わる話だ。
しかし、1秒で終わるのは先生の都合であって、生徒にとっては1秒で教わったものは1秒で抜けていく。だから、多くの場合その生徒のためになっていない。そこで、質問を受けた私の脳内で「どのようにヒントを出せるか」をクルクル思案し始める。
「地図帳を出してごらん」
生徒にとっては、漢字の読みを尋ねているのに何故地図帳?と疑問に思うだろう。
「大阪市の南東、見てごらん」
「〇田林市、探してごらん」
「〇〇だばやし市、大阪府民なら一度くらい聞いたことあるだろう」
生徒は大阪府の地図を眺めてジッと探す。
「あ、ありました。とんだばやし市」
「そう。富田林市だよ。だから?さっきの読みは?」
「とんだ(富んだ)です」
「OK」
そんな面倒な回り道をせずに、答えを教えれば済むんじゃないの?と思う人もいるだろう。
しかし、漢字の読みと地図帳を連動させることで、漢字は漢字の範囲だけでなく、地名の読み方からヒントを見出すことが出来る、という生徒自身の<知恵>を養うことにもつながる。
脳の回路の点と点を繋げるとは、こういう地道な取り組みを重ねる先にあると私は確信している。
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