勉強とは視覚認知の訓練

〇〇は社会に出て役立つから学校で勉強する意味がある。
××は社会に出ても役立たないから、学校で勉強する意味はない。

こういう考えを持つ人は少なくないが、私はあまり好まない。
実用性の有無に関わらず、まずは目の前の取り組みに真摯に向き合うことに意味がある。

というのは、
勉強においてはひたすら「目」を使う

教科書を読む、問題を読む、辞書を調べる、実験で起きている現象を観察する。
「勉強することは見ることだ」といって過言でないだろう。

むしろ、勉強とはこの「見る目を鍛えるために」していると言えるのだ。

この点から逃げてきた人は、社会人になって苦労が多いように私は思う。
業務でやり取りするメールひとつ見ても、基礎的な読解力がなければ仕事にならない。

別に深読みをしたり、相手の真意を推測するまでいかなくても、
最低限、文字は隅から隅まできちんと読み、自分の頭で考える「気力」は欠かせない。

恐らく、その耐性を養うのが勉強の大きな役割のひとつだと思うのである。

読むことを忌避するマインドのまま社会人になってしまうと、それこそ契約書にサインする場面であったり、後になって「知らなかった」「聞いていなかった」「言われてなかった」と言っても通用しない。コロナ禍で各種の支援金や補助金が設けられているが、口を開けていれば誰かが自動的に助けてくれる訳でもないから、まずは自分で読まないことにはどうにもならない。

自分の書いた答案を見直して因数分解の計算ミスを発見するとか、そういうテストのためだけだと思っていたことが、実はその人にとって視覚認知力(目を動かし、読む力)の訓練になっているということは、紛れもない事実として知っておくべきであろう。

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