学習塾の仕事をしていて思うことは、大切なのは「生徒を見抜くこと」と「的確な指示を出すこと」の2点に尽きるのではないか、ということだ。教え方が上手とか、生徒にとって分かり易い、とか、そういった要素も不可欠だが、2本柱のうちには入らない。
指導側としては生徒の性格や癖、長所と短所を出来る限り見抜いて、それに応じて教材の選び方や取り扱う問題のジャンル、教科のバランスなど、細かく書くとマニアックな話になってしまうが、そういったことを随時調整していかなければならない。時には心理学者のようにもなり、生徒の深層心理に介入していく必要がある。
「的確な指示」についても、全てが全て百発百中ではないし、どれだけ高い精度が出せるかということも必ずしも一定な訳ではないが、最近思うのは「経験」が何よりも大切で、指導者としては一見無駄に見える経験も含めて、経験を重ねることで蓄積された知識も織り込みながら、より的確な指示が出せるようになると考えている。
塾で生徒に向き合うということは、この「生徒を見抜く」ことと「的確な指示を出す」ことの連続であり、私が言うのもおこがましいが、後進の指導者にはこれら2点を磨くことを大切にして欲しいと願っている。(もちろん、私自身も完璧ではなく、まだまだ未熟だという謙虚さを踏まえて)
一例を挙げてみると、
過去の卒塾生の話だが、LD(学習障害)の子がいて、しかし経歴を聞いてみると小学生の時に何年も公文式の教室に通っていたという例が複数あった。神尾塾に来て「もしや?」ということでWISC等の心理検査を受けてもらって、親御さんともども「なるほど、そうだったのか」という結果を耳にすることになるのだが、なぜ過去に公文式に何年も通っていて、その公文の先生は気づかなかったのか、と私として立腹を感じる例が少なくなかった。
いや、私も小学生の頃は公文式に通っていたし、塾を開いてからも公文式の市販教材を使うことはあるので公文式に他意はない。あくまで公文式は一例に挙げたまでだが、そういった相当【鈍い】人間も意外と多くこの教育業に関わっているのだ。
一般の家庭から見たら、どこが鈍くてどこが鈍くないかなんて分かる訳もないし、神尾塾が鈍くないとも限らないのだが、先に述べたような話を考えると、この学習塾の仕事に従事することの【罪深さ】も切々と感じるし、自分がその「罪」を犯さないよう自身を戒めたいとつくづく思う。
なぜ「罪」かと言うと、仮にその子がLDであったならば、その時に【打つ手】というものが必ずあるからなのだ。そこに気づかずにごく一般的な教材をごく一般的な手法でその子に押し付けて、結果その子が勉強嫌いになったり自信喪失に陥る実例もある訳で、それが「罪」だと言うのだ。
そういう意味でも、どういう指導者、どういった教室と出会うのか、ということがものすごく大事であるし、ご縁の問題と言ってしまえばそれまでだが、「塾選びは人生を変える」のは本当なのだということを改めて確認しておきたい。