言志晩録

「言志晩録」は「言志四録(げんししろく)」のうち佐藤一斎(いっさい)が67歳から78歳にかけて記した随想。
尚、佐藤一斎は江戸時代後期の儒学者で、門下生に佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など、幕末に活躍した英才を輩出している(勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰などの志士は佐久間象山の門下)。

今回は生徒の立場で、というよりも塾指導者としての立場で重要と思われる項目をピックアップ。

—(引用ここから)
【41】動静二面の修養
余の義理を沈思する時は、胸中寧静(ねいせい)にして気体収斂するを覚え、経書を講説する時は胸中醒快(せいかい)にして気体流動するを覚ゆ。
(訳)自分が正しい道筋について深く考え込む時には胸の中が安らかで、心も体もひきしまるように思われる。また、諸生のために経書を講義する時は、胸がすっきりして、元気が体中に流れているように感じられる。
—(引用ここまで)

論語や大学、中庸といった四書五経など時代を超えて生き続ける優れた読み物を読んでいると、気分がスッと落ち着いてくる。「気持ちが鎮まる」ということだと思う。

—(引用ここから)
【42】講説の心得 その1
講説の時、只だ我が口の言う所は我が耳に入り、耳の聞く所は再び心に返り、以て自警と為さんことを要す。我が講已(すで)に我れに益有らば、必ずしも聴く者の如何を問わじ。
(訳)学生達に講義するとき、自分の口から出る言葉が、自分の耳に入り、耳に入ったことが、再び心に戻って来て、それを自分の警(いまし)めとすることが大事である。自分の講義が自分の修養上の利益になるならば、必ずしも、聴講者が如何に感じるなど、問題としない。
—(引用ここまで)

「当事者意識」を常に持ち続けることが大切なのだが、今自分がしていることは誰のためにしているのか。それは全て「自分のためにしている」という考え方を持つことなのだろう。私が生徒に何か講義をしたとしても、それは誰のためか、それが最終的に自分のためになっているかどうかという、究極の「自己中心主義」を持ちたい。自分がその講義の当事者となるからこそ、生徒に伝えるべきものが伝わるのだと考える。

—(引用ここから)
【43】講説の心得 その2
講説は其の人に在りて、口弁に在らず。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」が如き、常人此れを説けば、象山此れを説けば、則ち聴者をして愧汗(きかん)せしむ。視て易事(いじ)と為すこと勿れ。
(訳)講義はそれをなす人の人物如何にあるので、決して口先にあるのではない。『論語』の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」を普通の人が講義するならば、蝋(ろう)をかむように味わいの無いものであろう。ところが、陸象山がこれを説明した時は、さすがに人格者だけあって聴く者をして、皆自らを反省させ、背中に汗を流させたという。このようなことをみても、講義ということは決して生易しいことだと考えてはいけない。
—(引用ここまで)

これは例えば論語の解説本を読んで、胸に響く現代語訳や解説をしている本と、そうでない本に出合うことで理解出来る。ということは私が生徒に何かを講義する時も、薄っぺらい表面の言葉の説明で終わらせることなく、生徒の胸にグッと差し込んでいくような講義の出来る人格を目指さなければならないと思うのだ。

—(引用ここから)
【103】彼を知るは易く、己を知るは難し
彼を知り己を知れば、百戦百勝す。彼を知るは、難きに似て易く、己を知るは、易きに似て難(かた)し。
(訳)孫子の言葉に「敵情を知り、味方の情勢をよく知れば百戦百勝す」とある。ところで、敵情を知ることは、難しそうで易しいが、味方の情勢を知ることは、容易なようで、実は困難である。
(付記)入試について或る人がいった。「出来たという人は落ちる。間違ったという人は入る」と。つまり、人には身びいきがあって、自分を正当に批判することは難しいということであろう。出来たという人は自分に甘い人であり、間違ったという人は自分を正しく見ているのではなかろうか。
—(引用ここまで)

この章句は先日2月6日の中3生対象・県立直前講座の最終日で生徒と共に読んでみた。「油断したら落ちるぞ、ビクビクしているくらいがちょうどいいぞ」という話。

先週2月8日の塾通信ではH君のことを書いたが、「彼を知り己を知れば、百戦百勝す」のうちの「彼を知れば、百戦百勝す」に短縮して読んだ上で、この先の見通しが「戦わずして勝つ」となる。「戦わずして勝つ」というのは、何もしないという意味ではなく、準備を周到に重ねて、更に石橋を叩くがごとく用意が整えば、必然的に勝利が得られない訳がないということ。もちろん、世の中には番狂わせというものもある。しかし、「戦わずして勝つ」と言える段階まで仕事(勉強)をしているだろうか、という自問自答をしながら自身の取り組みを進めていきたいものだ。

これについては面接に関しても言えることなので、Voice.02で書いてみる。

—(引用ここから)
【129】聖人の治、世に棄人なし
物の所を得る。是れを治(ち)と為し、事の宜しきに乖(そむ)く。是れを乱と為す。猶(な)お園を治むるがごときなり。樹石の位置、其の恰好(かっこう)を得(う)れば、則(すなわ)ち朽株敗瓦(きゅうしゅはいが)も、亦(また)皆趣(おもむき)を成す。故に聖人の治は、世に棄人(きじん)無し。
(訳)適材が適所におかれているのが天下が治まっているといい、事の不釣合なのが乱れているという。このことはちょうど庭園を整えるのと同じである。樹木や石のある場所が、恰好よければ、朽ちた木の株でも、かけた瓦でも、皆一種の趣をなすものである。故に聖人の治世には、棄てられる人はいない。
—(引用ここまで)

「聖人の治世には、棄てられる人はいない」、これは現代が最も遠ざけている思想ではないだろうか。神尾塾で言うならば、全ての生徒を活かしたい、ただ授業料を絞りとるだけの「お客様」を造らず、出来るだけ全ての一人ひとりの生徒を生かしてその価値を高めたいと思う。なかなか難しいことだが、私にとってこの章句は重く感じる。

—(引用ここから)
【136】政治の要訣
「水至って清ければ、則(すなわ)ち魚(うお)無く、木直に過ぐれば、則ち蔭無し」とは、政(まつりごと)を為す者の深戒(しんかい)なり。「彼(かしこ)に遺秉(いへい)有り。伊(こ)れ寡婦(かふ)の利なり」とは、ほんして政事(まつりごと)と做(な)す。亦(また)たまたま好(よ)し。
(訳)「水が清らか過ぎると魚はすまないし、木が真直ぐ過ぎると、蔭ができない」とは、政事が綺麗(きれい)過ぎると人材が集まらないということで、これは政治をなす者の深い戒めである。また、「あすこに取り残された稲束があり、ここに稲穂が落ちている。よるべなきやもめもこれを拾うて利する」とあるのは、これはこのまま政治に移してまあ結構なことだ。
(付記)本文の趣旨は、人君は綺麗過ぎて余りにこまか過ぎては人材が集まらない。また、場合によっては目をふさぎ、耳をおおう必要があるということであろう。
—(引用ここまで)

これまた私自身のことで言うと、今まで腹を立てていたことが年々そうでなくなることが増えている。これが歳を重ねる、円くなるということなのか。「清濁(せいだく)併せ呑む」ということも一方で大切なことなのかもしれない。

—(引用ここから)
【144】奥向きの教育を思う
方今(ほうこん)諸藩に講堂及び演武場を置き、以て子弟(してい)に課す。但(た)だ宮(きゅう)こんに至りては、則ち未だ教法有るを聞かず。吾が意欲す、「こん内(ない)に於(おい)て区して女学所を為(つく)り、衆女官(しゅうじょかん)をして女事(じょじ)を学ばしめ、宜しく女師(じょし)の謹飭(きんちょく)の者を延(ひ)き、之をして女誡(じょかい)、女訓(じょくん)、国雅(こくが)の諸書を講解せしめ、女礼(じょれい)、筆札(ひっさつ)、闘香(とうこう)、茶儀(ちゃぎ)をあわせ、各(おのおの)師有りて以て之を課し、旁(かたわ)ら復(ま)た筝曲(そうきょく)、絃歌(げんか)の淫靡(いんび)ならざる者を許すべし」と。則(すなわ)ちこん内(ない)必ず粛然(しゅくぜん)たらん。
(訳)現今、各藩では、学問所や武芸を励む道場を設けて、青年に勉強させている。ただ、奥向きに対しては、未だ何等(なんら)、教える方法があるとは聞かない。自分は次のことを望む。「奥向きに、区画を立てて、婦女の学問所を設け、多くの女官に、女性の道を学ばしめ、慎み深い女性の師匠を選んで、女性としての誡や訓、和歌などを講釈させ、また女性の礼儀・習字・香合(こうあわせ)・茶の湯など各々師匠をつけて習わせ、かたわら筝曲(そうきょく)、絃歌(げんか)のみだらでないものを許すがよい」と。こうすれば奥向きは必ず粛然(しゅくぜん)と正しくなるであろう。
—(引用ここまで)

この辺りは女子校として頑張っている、千葉で言うならば国府台女子や聖徳女子、和洋国府台といった女子校の矜持(きょうじ)のようなものだと思う。男女平等は当たり前。その上で女子教育は女子教育として国の要であるという考えは決して古い思想ではないと思う。

—(引用ここから)
【230】家庭の道徳 その3
父の道は厳を貴ぶ(とうと)ぶ。但(た)だ幼を育つる方は、則(すなわ)ち宜しく其の自然に従って之を利道(りどう)すべし。助長して以て生気をそこなうこと勿(な)くば可なり。
(訳)父の子に対する道は厳格を貴(たっと)ぶ。ただ、幼児を育てて行くには、その自然のままに従って、これを善い方向に導いて行くのがよい。無理なことをして、子供の生々とした気を害さなければよいのだ。
—(引用ここまで)

神尾塾の広告に「塾選びで、人生が変わる」というキャッチコピーを使っているが、「何が言いたいのか分からない」と別の広告会社の人に言われてしまった。

神尾塾でない塾に行った方が良い生徒もいるし、神尾塾に来た方が良い生徒もいる。また、これまで私が見てきた中では生徒を潰す先生というのもいるし、生徒を駄目にする先生というのもいる。「何でこんなものも出来ないのか!」と毎回毎回生徒を叱責して、その生徒から明るさと生気が抜けてしまい、しかし母親としては「熱心な先生」ということでその先生と一緒に息子を叱る。ますます悪循環で下しか向けない生徒になってしまう。そんな例も本当にあるのだ。

だからこそ指導者との出会い次第で生徒の人生が変わるというのは間違いのない事実で、学校も塾も同様。こればかりは言葉を尽くして説明するよりも、分かる人にとっては「本当にそうだよね」と心底痛感できるフレーズだと考えるのである。だからこそ、このキャッチコピーで、応募していただけるご家庭をフィルタリングしているということも言えなくもないのだが、「第129章・聖人の治、世に棄人なし」のように、生徒の特性を敏感に察知し、きめ細かく導く心がけを出来る人間、そういったことに気づける者でなければ指導者になってはいけないと強く思う。

※出典:「言志四録(三)言志晩録」 佐藤一斎・著/川上正光全訳注(講談社学術文庫)