私は本を読んでいるかいないか、と問われれば圧倒的に読んでいない分類の人種に入るだろう。しかし、私なりに読書の流儀のようなものが固まってきたので、それを記してみたい。
小学生の頃に読んで記憶が残っているのは斉藤実さんの『太平洋漂流実験50日』。洋上で運動不足になるので便秘になり、浣腸もなくなってしまったので、仕方なく灯油を尻から注入したら便秘が解消した、なんて話もあったような気がする。高校ではビートたけしのエッセイ本をほとんど読み尽くした。最も汚いものを知っている人間が最も美しいものに気づくことが出来るという「振り子理論」は今でも自分の中に生き続けている。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』を読んだのもこの頃だ。能無しが何人集まって無駄な議論を重ねるよりも、有能な一人の人物が先達して世を引っ張っていくこと。そんな教訓が頭の中に残っている。
この頃でも書店には足を運ぶのだが、次々と刊行される最新刊よりも、100年後に残っているような本を読みたいと考えるようになった。今書店に並んでいる、ベストセラーとされている本は、まず数年で消えていく。物質としても記憶としても消えていきやすい。では100年後に残っている本は何か、100年後に読み続けられている本は何か。と考えた時に、それは古典ではないか、と。100年前に出版された本が今でも書店に並んでいたら、それが「100年後にまで読み続けられる本」である。
さて、私は多読派ではないので、1日10冊読みました、とかそういう器用なことは出来ない。むしろ別に多読をする必要は無いではないかと考えている。速読、多読というのはしょせん「芸」に過ぎなくて、大切なのはその一冊から自分が何を得るか、だ。
私は小説を除いて、右手にポストイットの付箋を握って読む。そして大切だと感じた箇所のページにその付箋を貼っていく。最終ページに到達したら、再びその付箋のページに戻って、読み返して大切でないと思った所は付箋を外していく。それでも最後まで付箋が残ったら、そこを(そのまま抜粋、またはキーワードを)抽出して紙またはパソコンで書き出していく。そして記録集を残すと共に、その一連の作業で内容が自分の中にこびりついて定着していく。つまり「自分のものになっていく」。そこまで到達して初めて、1冊を読み終えたことにする。
このためにも、出来る限り良書を、長年多くの人々に読み続けられている良書を選ぶようにする。ちなみにそういう風に本選びをしていくと、岩波文庫のような老舗出版社のシリーズに行き当たることが多くなったりするので、これが老舗の底力なのだろうなと感嘆してしまったりする。
まあ、これは今現在考えている話であって、学生の頃は、中高生の頃は読みたい本を読めば良いと思う。極端な話○ロ本でも良いのだ。自分がのめり込んで読める何かに出会うことが出来れば幸せで、本というまとまった文章に触れるのは思考開化にとって重大な要因となる。