「読み」の整理学

お茶の水女子大学名誉教授・外山滋比古先生による「読み」の整理学。

「読み」には『アルファー読み』と『ベーター読み』の2種類の読み方があるという。前者は、すんなりと読める読みやすい読み物の読書、後者は、一回読んだだけでは理解しづらい、何度読み返してもすんなり自分の中にその意味が入ってこない手ごわい読み物の読書。という風に解釈してよいと思う。

以下、一気に抜粋。

—(抜粋ここから)
◎アルファ読みを誘発、その満足を目的として、周到に用意された読みものが大量に出回っている。それに触れているうちに、アルファ的言語が正常なもののように考えてしまう。ベーター読みを必要とする文章を頭から、難しいもの、おもしろくないものと拒否し、片隅に押しやる。学校にいる間は、いやいやにもせよ、ベーター読みをしなければならない。それによって知的発達をとげることができる。(P.120)

◎文章とか、ことばというものは、一度でわかってしまわないといけないように考えるのは誤っている。新しいことを知るには、時間がかかる。一度だけでは無理である。教えたことを、すぐあとで試験してわからなかったら承知しない、というような教育では、わかり切ったことしか教えられない。わからないところが残っていい。それをほかから手をさしのべて、即席の理解へもって行こうとするのは、せっかくのベーター的理解の機会をわざわざつぶしてしまうことになる。(P.140)

◎アルファー読みは楽でたのしいだろう。ベーター読みはやっかいである。しかし、ロープウェーがあっても登山が決してなくならないように、いかにアルファー読み向きの読みものが多くなっても、ベーター読みがおろそかにされてはならない。わかりやすい本があふれるように多い、こういう時代だからこそ、けわしい山に挑むような読書がいっそうつよく求められる。(P.142)

◎昔の人が学問をする、と言えば漢学ときまっていた。学校はないから、塾へ行く。読むものは四書五経である。大学・中庸・論語・孟子(四書)、易経・詩経・書経・礼記・春秋(五経)である。三国志や水滸伝を読ませるような漢学はない。読み方がまた独特である。素読といわれるもので、いっさい説明しない。ただ声を出して読ませる。師匠が言ったとおりついて読む。(P.144)

◎素読とはこういう読み方であった。「解らない」のであるが、それは承知で教えていたのである。なぜ、そんなことをしたのか。まったく効果がなければ、いくら昔だからといって、広くこれが行われたりするはずはなかろう。長い間、これが有効だと考えられ、ほかに教育らしいことがなされなかったということは、その「解らないから、ちっとも覚はらぬ」素読によほどいいことがあったに違いない。だれが見ても無理だ。小学生に、いまなら大学生でも歯の立たないような四書五経をやみくもに読ませるというようなことをさせたのは、読むということはどうやってみても、しょせん難しいものだという通認識があったのではあるまいか。

泳ぐのはたいへんだからといって、いくら畳の上で稽古していても、いつまでも泳げるようにはならない。水に入るのがこわいから、砂場で泳ごうか、などと言っているのでは話にならない。どうせ一度は苦しい目にあわなくては泳げるようにならないのなら、ひと思いに、まるで泳げないのを承知で海の中へ突き落としてしまえ。それで何とか泳げるようになるものだ。素読にはそういう読者に対する信頼感がある。それと同時に、へたにやさしいものを読ませたりしていると、いつまでたっても四書五経のようなところへはたどりつけまい、という考えもある。まずアルファー読みから入り、ベーター読みへ切り換えて、などといっていては、本当の読みができるようになるまでにどれほどの時間がかかるか知れない。一挙に本丸から攻めよ。それが素読の思想である。(P.146)

◎素読を可能にするには、古典的価値の高い少数の原典を選定することである。それを学習者、そのまわりの人々が絶対的なものであると信じ込む必要がある。信頼していないものでは反覆読みにに耐えられるはずがない。素読では、読んだことが、わからぬということがわかっている。これがベータ読みへの原動力になる。アルファー読みは、わかることはわかっても、わからぬことがわからない。(P.151)

◎ベーター読みは難しい内容の本をくりかえしくりかえし読むことによって到達できる。素読はその好例である。素読でなくても、十回、十五回と読み返すうちに、未知を読むことは自然に体得できる。どんなにわからない文章や本でも、反覆読んでいれば、そのうちにわかってくる。それを古人は、「読書百遍意おのずから通ず」と言った。これぞすなわち、ベーター読みの王道である。(P.157)

◎いまの家庭は教育熱心である。こどもが求めもしないものでも先回りしてつぎつぎ与える。親たちも昔の親たちに比べたらずいぶん知的である。それでもこどもは、なにかいやなことがあれば、プイと自分の部屋に入ってしまうことができる。ここは城のようなもの、親といえどもめったに立ち入ることができない。かつてのような求道的読書がすくなくなったのは、若ものが物質的に豊かになったためであろうか。すこしばかりは貧しくないと、人間は努力をしないものである。(P.173)

◎中学3年のとき、国語の教科書で、寺田寅彦の「科学者とあたま」を読んだ。「いわゆる頭のいい人は、いわば脚の早い旅人のようなものである。人より先きに人の未だ行かない処へ行き着くこともできる代りに、途中の道傍或は一寸した脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人脚ののろい人がずっと後からおくれて来て訳もなく其の大事な宝物を拾って行く場合がある。」こういう書き出しの文章を読んで、それまでに感じたことのないつよい衝撃を受けた。(P.175)

◎なにごとも読んだら即座にわかってしまわないといけないように考えるのは、アルファー読みにならされた人間の陥りやすい誤解である。本当に読むに価いするものは、多くの場合、一度読んだくらいではよくわからない。あるいはまったく、わからない。それでくりかえし百遍の読書をするのである。時間がかかる。いつになったら了解できるという保証はない。それがベーター読みである。わからぬからと言って、他人に教えてもらうべきではない。みずからの力によって悟らなくてはならない。(P.187)>

◎ベーター読みは、かならずしも、文章の筆者が意図したところのものと符合するとはかぎらない。読むものが全身全霊をこめて読むとき、読みとられたものが筆者の考えそっくりであるのは、むしろ例外と言ってもよいくらいである。読書は、新しい意味の発見である。(P.192)

◎筆者がその表現に込めた意味は、読者が読みとる意味とつねに多少とも違っているものである。(P.198)

◎(エピローグ「モモタロウ」解説について)
言うまでもないことながら、モモタロウの話の意味はこれだというのではない。いわんやこのように解釈すべきであるなどと言うのではない。ただ、ありえないことをそのまま信じてしまうのではなくて、いかにも素朴な話の裏に、伝えようとしているメッセージがあるのではないか、と考えてベーター読みをすると、こうなるというのである。さきのモモタロウ解釈は、ベーター読みで得られたひとつの”意味”である。おそらく、これとそっくりの解釈をする人は、ほかにないだろう。しかし、この試みは、自分にはおもしろく感じられる。これもほかの人の共感を得ないかもしれないが、ベーター読みの読み手は、自分だけの意味をとることが出来ればそれで満足する。

アルファー読みには、誤解、誤読ということがある。テストで誤りとされることもある。ベーター読みは、個性的であって、ひとりひとり違う。十人十色の解になるのが正常であって、一致するとすれば異常である。(P.219)
—(抜粋ここまで)

と、このように抜粋部分のみ読んでいても、読書というものがいかに自由で読み手次第のものであるかということが強く伝わってくる。もっと自由に、勝手に読めばいいのだ。勝手に解釈して、あれこれと自分の中で想像を広げて、書き手と異なる解釈をその文章の中に発見することも創造的であると外山先生はおっしゃっている。

また、一見して「分からないもの」を読むことの大切さ、分からなければ分からないままに繰り返し読んでみることの大切さも説かれている。だからこそ、現代でも小学生に古典や名作文学を音読させることが大切だということだろう。

私は小学4年生のときに般若心経を暗記した。毎朝祖母が仏壇で般若心経をあげるのを隣で聞いて、口ずさんでいるうちに覚えてしまった感じである。そういう意味では「分かりにくいもの」は意外と覚え易く、頭の中に残りやすいような気がする。これが5年、10年、20年と経った時に、「空(くう)」ってどういうことだろうか、とふと考えたりするのだから、これこそが「ベーター読み」の最も目指すところの、ただ読んでおしまいではない、思考と余韻を残す知的な読書ということになるのだろう。

自信をもって「分からないもの」を読む読書をしてみよう。

(出典:「読み」の整理学 外山滋比古・著、ちくま文庫)