なぜ勉強をするのか

進学研究会の中3模試を解いていたら、国語にこんな文章が掲載されていた。

山崎正和・著「文明としての教育」より

◎じっさいわれわれが共通の知識、あるいは共通のものの見方を持っていなければ社会は成立しません。教育は国家単位の統治行為として進められなければならないわけです。

◎また、社会の基本的な約束事を教え、最低限度の規範意識を授けるのもまた教育の役割です。ものを盗んではならない、人を殺してはならない。こうした規範意識を国民が知り、その知識を身につけていなければ、社会生活は破綻してしまうでしょう。

◎教育が国家の統治行為であるということは、裏返して見れば、近代以降の国民は無知である自由、あるいは無知である権利を持ってはいないことを意味します。注意すべきは、知識とは私たちにとって便利な道具であるだけでなく、文明社会においては持つことを義務づけられたものなのです。

◎道具としての知識のなかで、持つことを義務づけられた典型的なものが言葉でしょう。じつは言葉とは、個人が自分自身のために意思や感情を伝える道具としてあるものではありません。むしろ、言葉は伝える相手のために、第三者を含む社会のためにあるのです。

以上。もうこれだけでお腹いっぱい。陳腐な解説など必要としない。上記を読めば充分だろう。

文明社会で生きる以上、勉強「しなければならない」のだ。「無知である自由」は持ってはいない、「言葉は伝える相手のために」ある。自分の都合がどうのこうの、ではない。社会の中で生きて、社会に生かされている以上、その社会を成立させるために共通の知識とものの見方を持つことは義務なのだ、と。