努力とは粘り強さ

自分で言うのも何だが、毎日かなり多忙である。「心を亡くす」と書いて「忙しい」となるが、まさに「忙」である。

しかし、出来ることは積み残さずにしておいた方がよいな、と思うことと、忙しくタスクを詰め込んだ方が頭脳の回転数(処理能力)が上がることは実感しているので、自分から趣味的に仕事を詰め込んでいる節もある。

もう一つ。
塾で生徒を「導く」立場というのは、自分が「学ぶ」立場も常に持っていなければならないと私は思っている。ビートたけしの『振り子理論』というものがあるが、「導く」だけの立場はいつの間にか裸の王様になってしまって、学ぶ側の感性を失ってしまう。ひいては導くこと自体に過ちが出てくる。「導く」機能を正常に作動させるためには、対極にある「自分が学ぶ」立場に身を置くことが必須だと私は思っている。

そんなこんなで、昨日は大阪商工会議所で検定試験を受けてきた。日ごろ勉強時間は容易に確保できないし、それこそ歯を磨きながら暗記物を頭に叩き込むような感じだ。体は疲れきっているし、棄権して寝ていた方が健康のためになるのではないかと何度も誘惑にかられながらも、あと一年分過去問を解こう、あと一問だけしっかり計算して理解しておこう、と。

その結果、本番の試験中に「あの時間、あきらめずに粘ってよかった。粘ったからこそ、この一問が理解できる!」と粘りの重要さをしみじみ痛感する。

まさに、先生が知識として「粘り強さ」を説教するのではなく、実感として「粘り強さ」の貴重さが体に染み込むのである。「学ぶ」立場にいるからこそ見えてくる「導き」のポイントである。

尚、夕方からの面談2件を前に、心斎橋筋の「味万」で肉うどんと天むすの遅い昼食。自分へのご褒美は欠かさない。