宝の山で、国民は幸せになったの?

小学生の読解教材に用いている、都麦出版の「読解はかせ~社会編」より。この話、私は知らなかったのだが衝撃的だったので、昨日の神社の勉強会で資料にしてみた。こんなことが本当にあるのか、と思ってWikipediaからの引用も載せている。
https://kj-lab.net/img/181203.pdf

「仕事をしないで楽に生活できたらよいのに」
「誰か自分を養ってくれないかな」
「ただでご飯が食べられたら・・・」

こんなことは社会人になっても一度や二度どころか、疲れたなと感じるたびに思うことである。
実際にその夢が現実になったらどうなるか、という末路がこの資料のテーマだ。

「おじいちゃん、もうお金や食事のことは一切心配しなくてよいから、おじいちゃんの好きなことだけをして一日過ごしてくださいね」とか言っていると、そういうお年寄りは認知症になりやすい。私の祖父母ともに最期は認知症であったが、どこかに緊張感とか、ある程度「自分が頑張らねば」「自分が考えねば」という要素を生活の中に残しておかないと、人間は何歳であっても本当に駄目になる

学生だってそうだろう。「今日から好きなゲームだけをして、勉強は全くしなくていいからね」なんて言っていると、ごくまれに「eスポーツ」とかで頭角をあらわす人間を除いて、大多数は駄目になるだろう。駄目というのは、自分で考えない、自分で行動しない、困ったら真っ先に誰かが助けてくれるという思想に染まっている、救援先をハシゴしては相手から吸い尽くす、吸える相手がいなくなったら、駄目なのは社会のせいだ、外が悪いんだと他者に責任転嫁して自暴自棄になる。

私の昔の知人に、年配の方であったが都心に不動産を所有していた人がいて、江戸時代から続く老舗の跡継ぎであったが商売をするよりも土地をビルにして部屋を企業に貸し出した方が儲かるじゃないかということで、ま、その人にはそういう才覚があった、ということも言えるのだが、その人自身は一切仕事をせず、午後に起きて、夜は読書とか好きなことをして、食事はフェラーリで近所の蕎麦屋に行き、頻繁に海外旅行に出かける、という暮らしを生涯続けた人がいた。

人それぞれの幸福はその人それぞれのものであるから一概に他人がアレコレと言えないけれども、世の中に何か価値を提供する、他人に何かインプレッションを与える、といったこともなく一方的に「吸う」だけの人生というのも、世の中がそういう人ばかりであったらどうなってしまうのか、と今になって私は思うのだ。

「働く(はたらく)とは傍(はた=周囲の人)を楽(らく)にする、という意味ですよ」などと説教じみたことをここで言うつもりもないが、「世界は誰かの仕事でできている」という山田孝之のかつてのジョージアのテレビCMのように、日本で生活していて、物にあふれて不自由なく生活できているのは「仕事をする」「はたらく」「勉強する」という価値観が当たり前に根づいている日本という国柄のおかげなのだ、ということをしみじみ痛感するナウル共和国の話であった。