修身教授録の感想文2017

※修身教授録について
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◎O・S(中3)

私は、森信三先生の『修身教授録』を読んで、良いなと思う文があります。それは「書物というものは義務意識で読んだのでは駄目です。義務意識や見せびらかし根性で読みますと、その本の三分の一はおろか、五分の一の味も分からないでしまいます。」というところです。この文は、勉強にしても同じだと考えます。勉強は、義務意識や見せびらかし根性ですると、五分の一の事も頭に入っていないと思います。
私は、最近あまり本を読んでいません。しかし『修身教授録』には読書について、最も重要なるものの一つで、人間生活は読書がその半ばを占むべきだと書いてあります。そして、こうして知り得たところを実践していくことが必要だと思います。したがって、私はこれからたくさんの本を読みたいと思いました。

→O・S君。初回作文に比べて文章年齢が大きく成長している。

◎H・F(中3)

われわれは一体何のために学問修養をすることが必要かというに、これを一口で言えば「人となる道」すなわち人間になる道を明らかにするためであり、自分が天からうけた本性を十分に実現する途を見出すためだとも言えましょう。
私は、たくさんある項目の中から「とにかく手をつける」という項目について考えます。まず真先に片付けるべき仕事に、思い切って着手することが大切です。しかし私はいつもいつも宿題を後回しにしており、自分の首をしめています。早く手をつけて終わらせればよいことをめんどうくさがっていつもしません。「とにかく手をつける」ということは、仕事を処理する上での最大の秘訣だと森信三さんは記しています。ですから、一度着手した仕事は一気呵成にやろうとこれから実践していきたいと思います。

→H・F君。「○○について考えます」といった随所のちょっとした言い回しに作文のセンスを感じる。これは意外な発見だったが、将来文章に関わる仕事に進めるか進めないかで言えば、進める、と言えるだろう。ただし校正前の「めんどくさがって」「一度着した仕事」「一気回呵成」といった不可解な記述も相変わらずあるので、この点の基礎的な日本語の訓練は別途必要。センスはあるのにそこがもったいない。

◎N・M(高3)

今回「修身教授録」を読んで、全体的に興味深く、面白いと感じた。その中でも私は、「人間の知恵」という文に感銘を受けた。人間の知恵とは、自分で自分の問題に気づき、自らで解決し、克服した事柄のみが自己を形づくる支柱になる。単に受身的に聞いたことは知恵にはならない、という意味だ。
私がなぜ、この文章に感銘を受けたのか。理由は、私自身がこの文章に納得させられる出来事を体験したからだ。私は以前、ある人から「時間と手間を無駄にするな」と紙を通じて怒られたことがある。その時の私は、わざわざ紙に書かれる意味がわからず「直接言えば良いのに」と苛立ちを感じていた。しかし、自分の問題は、自分で気づいてほしいから、紙に書いていると知った時、苛立ちを感じていた自分が恥ずかしくなり心から反省した。二度と同じことが起こらないよう「人間の知恵」を心に刻み、人から言われる前に間違いに気づき、自ら解決し克服していきたい。

→N・Mさん。どうだろうか、N・Mさんのこれまで書いた作文の中で過去最高の出来ではないだろうか。ここまでたどりつくのにN・Mさんは5回書き直したということだが、良文とはこのようにして手間を掛けて練り上げていくものである。ここで云う「紙」とは塾の連絡ファイルのことであり、なぜ塾では連絡ファイルを通して指摘するのか、ということの意味を彼女はようやく理解した。


私は「修身教授録」を読んでみて、数ある項目の中で私の心に響いたのが「人間の知恵」だった。正直、その例えを作文に書いたとき、こんな事書いて良いのかと緊張と不安があり、書き直した枚数は実に五枚だ。漢字の注意や言い方がくどいと言われ悔しかったことから何度も何度も読み返し、完成したのだ。(提出)当日は、緊張で手汗が止まらなく、ずっとタオルを握っていた。すると、ほめられたのだ。たまらなく嬉しくて思わず笑みがこぼれてしまった。

上記はその後のN・Mさんのコメント。まさに自分の作文、作品に対する「一期一会」である。一期一会という熟語を作ったのは幕末の大老井伊直弼であるが、その語源は千利休の「一期に一度」にある。猛烈な緊張感と準備を茶会の参加者に求める命がけの茶、これが利休の目指す茶の湯の姿であったらしい。そうして考えると作文も同様で、これぐらいの緊張感と覚悟があってはじめて他人の胸に迫る文章が書ける。これで良い。

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