行動チェックシート

例年、年度の前半は「靴をそろえなさい」「プリントのページ順をそろえて提出しなさい」「そこで返事をしなさい」と基本的なことを指導する場面が多い。その一つひとつに対して口頭や連絡ファイルの記入で指摘していくのも、私のマンパワーの面で限界に達しつつあり、そこで「行動チェックシート」を用意してみた。

「あいさつをきちんとしよう」「宿題を丁寧にこなそう」と、ポジティブな書き方をしたいところだが、それでは生徒に伝わらない。そこで、心苦しいが「問題文を読んでいない」「途中式をきちんと書いていない」のように「~ない」の文体で統一することにした。

【1】あいさつがきちん出来ていない

入室時「失礼します」、神尾の顔を見て「こんばんは(こんにちは)」、座席を指定されたら「はい」の返事
連絡ファイルを渡しながら「お願いします」、授業終了で連絡ファイルを受け取りながら「有難うございました」、席を離れる時に「さようなら」、退室時「失礼しました」

これは神尾塾が本格稼動を始めた翌年、2011年度に中3生だった大山口中のT・R君の自発的な行動があまりに立派だったので、それをマニュアル化したものだ。T・R君はおまわりさん関係で学校内外を騒がせることもあったヤンチャな子だったが、塾の中では極めて紳士だった。これは紳士を演じていたのではなく、中学生の男子にありがちな二面性の問題だったと思う。子供が成長して大人へ変貌していく中で、ガキの面と紳士の面がツタのように絡み合って生育していくのだ。そのうちの紳士の面を塾で見せていたということだろう。

さて、マニュアルの話に戻ると、授業終了時に黙ったまま連絡ファイルを受け取り、席を離れる時に「有難うございました」または「さようなら」で去っていく生徒もいる。最初はマニュアル記載の通りに出来ていたことが、次第に「抜けていく」ということなのだが、今の段階でこの点については私も細かく目くじらは立てていない。が、出来ている生徒を目にしてしまうと、出来ていない生徒がどうしても目についてしまう。という所で「抜けやすい」生徒に改めてマニュアルに従わせるべきかどうか、細かいことだが私としては悩ましい。

【2】靴をきちんとそろえていない

靴は揃えて、玄関の中央ではなく、玄関の脇に寄せる。

家庭での習慣と、生徒自身の気づき。この2点が顕著に出てくる場面だ。そして、最初から靴を玄関の中央ではなく脇に寄せている生徒もいる。これは特にご家庭のしつけがきちんと出来ている証拠。そういうものを目にすると、立派だな、と私は内心思っている。

「靴を脱いで、整える」という行為は、「数学で途中式を書いて、見直す」という行為にも通じており、靴を脱ぎっぱなしの生徒は、途中式も書きっぱなし、つまりミスが多いという話にもつながる。なので、行動面を整えるということは勉強面、ひいては社会人の仕事面にもそのまま直結しているのだ。

【3】「はい」の返事が充分に出来ていない

何かを言われ(指示され)たら、必ず「はい」の返事。

言える生徒はこちらが何も指摘しなくても最初から必ず言えるし、言えない生徒は入塾後しばらく経っても「そこでハイでしょ」といちいち指摘されている。この違いは何だろうか。これも家庭ごとの習慣の差なのか。

ひとつ大切なことは、「返事が出来ている」ということは「相手の話を聞いている」ということなのだ。「返事が出来ない」ということは「相手の話を聞くことが出来ていない」ということでもあるので、リスニング力に直結している。このように「返事」の問題は大変重要といえる。

【4】プリントのページ順をそろえていない

これは「気づく力」そのもの。気づきのない生徒で学力が上がったためしが無い。

【5】連絡ファイルに書かれていることを読んでいない

これも「気づく力」、そして「読む力」。気づかず、読まなければ、目をつむって耳をふさいで生きているのと同じことだろう。

【6】字が雑

字が上手か下手かではなく、丁寧に(心をこめて)きちんと書いているか、が大切。

字をある程度丁寧に書こうとすることで、そこに相手に対する「信用」が生まれる。殴り書きのような文字であれば、それを見た相手もその程度に対応した振る舞いを見せるだろう。大切なのは「信なくば立たず」だ。「信」がなければどうしようもなく、反対に「信」さえあれば多少の窮地でも支援者が必ず現われるものだ。

字をある程度丁寧に書こうとすることで、自分の中に「信」が芽生えて、結果的に自分が得をすることになるのだ、という人間生活上の知恵を生徒には養ってもらいたい。

【7】宿題が雑(やっつけ仕事になっている)

雑な取り組みや、塾に来る前に駆け込みで宿題を終わらせても、全く自分のためにならない。

私が宿題のプリントを採点していると、その生徒がどういった気分・感情でその宿題を片付けようとしたか、がムンムンと伝わってくる。だからやっつけ仕事もプリントを見た瞬間に分かる。「あー面倒くさい」「早く終わらせたい」とか授業当日の家を出る前に駆け込みで済ませた宿題などで生徒自身のためになることなど一つもない。

丁寧に心をこめた仕事にしか自分の向上は得られない。やっつけ仕事の宿題をしている段階で、その生徒の学力が上がるわけがなく、授業料をドブに捨てているとしか言いようがない。ご先祖さまも涙を流しておられることだろう。

【8】問題文を読んでいない

なんとなく問題を眺めて、なんとなく答えを書くな。問題文の一文字一文字をきちんと読め。

「学力とは読解力である」と言い切ってよいくらいに、読解力の有無がその生徒の学力を左右するのは間違いない。だから基本的に国語が得意な生徒は他教科も伸びやすく、国語が苦手な生徒は他教科も伸び悩みやすい。

ただし、この【8】で言おうとしていることは遥か手前の話で、英語で「全文を書きなさい」と書いてあるのに部分しか答えていなかったり、「体積を求めよ」と書いてあるのに表面積を答えていたりと、勉強で上手くいっていない生徒はこの根本の「問題文を読んでいない」ということがほぼ確実にいえる。これは読解力以前の、これまで文字を「読む」のではなく「なんとなく」で認識してきたツケでもあるので、学力の改善には非常に重大な問題をはらんでいる。

【9】途中式をきちんと書いていない

思いつきで答えを書いてはいけない。頭の中で処理せず、一つひとつの式を書き記すこと。
暗算に頼らず、筆算をすること。

数学や理科の計算で途中式を書くということは、1番、2番、3番、と順番に話題を進めていくという論理性の訓練になるので、社会人になってから相手を説得させる力や、「これこれこうだから、こうなんですよ」とプレゼンテーションをして仕事を勝ち取る力につながる。

途中式を書けていない生徒は、答えが天から降りてくるものだ、と無意識のうちに認識しているため、何らかの問いが与えられた時に、頭の中に思い浮かんだ言葉を思いつくままに「うーん、○○」「えーと、××」と口にするだけで、前後の脈絡が全く無かったりする。私はこれを青森の恐山にたとえて「イタコ型」と呼んでいるが。

あと、中途半端に頭脳のよい生徒、または珠算を習っていた生徒で筆算をせずに暗算することが大変多く、自分の能力に頼って頭の中で計算しようとするのだが、それで100%正解するほど精度が高ければ文句は言わないが、私が見てきた生徒では不正解することが多く、そういった生徒も頭打ちになりやすい。なので、学習塾の立場から、珠算を習って功を奏するのはホンの一部の生徒で、大半の生徒にとっては悪影響なのではないか、と見ている。

【10】字をきちんと消していない(消しゴムの消し残りがある)

左手で紙をおさえて、右手で消しゴムを何度も往復させて、以前の文字が見えなくなるまで消す。

こんな程度のことは小学校低学年のうちに直しておかねばならないことだが、中学生以上でもこのような生徒が増えているということは、学校・家庭を含めて各地点での指導力が落ちていることの表れだろう。本チェックシートのような基本的な指導がされずに、世の中としては「アクティブ・ラーニング」やら「小学英語の必修化」やら上っ面の議論ばかりが進んで、ますます教育が形骸化の方向に進んでいる。

話を戻そう。近年、鉛筆で書いた文字を消す時に、半分以上消し残った状態で新たな文字を上書きするケースが増えてきた。この場合、「消しゴムを前後に往復させるための手先の体力の低下」「相手にどう見られるか、ではなく自分さえ分かればよい、という個人主義的価値観の浸透」。決して大げさではなく、こういった時代の流れも連動しているのではないか、と私は認識しているが。

【11】椅子を奥までしまっていない

両手で丁寧に扱う。机の下に椅子がきちんと納まったか、確認すること。

靴の扱いもそうだが、成績の上がる生徒は漏れなく道具の扱いが丁寧。椅子も両手で、机の下に押し込んでからも「これで大丈夫かな」と手を椅子に触れたまま数秒確認している。一事が万事で、このように心を込めた行動が出来るから、問題文もきちんと読んで、丁寧に解答することができる。反対に、椅子の扱いが雑な生徒は、一事が万事でモノの扱いが雑になるから、問題を解く時も雑に、と何事にも通じるであろう。

【12】相手に向かってあいさつしていない

対象に向かって(相手を見て)あいさつすること。関係のない方向を見ながらあいさつしない。

「さようなら」を言う時に床や脇を見ながらあいさつする生徒がいる。これは床や脇にあいさつしていることになるので、対象に向かってあいさつをしなければならない。これは社会人になってから、例えば接客でお客様に対してそっぽを向いてあいさつをしたら、それを見た客は再びその店に現われるだろうか、ということだ。

つまりこの項目も、実は「生きていくための(自分が稼いで食べていくための)知恵」を養う、まさに生きた教養なのだ。

以上、全12項目について詳細を書き出してみた。

昨今「人材がいない」という経営者の話をよく耳にする。人手があっても人材がいない、仕事を任せられる人間がいない、と。それは、恐らく上記12項目に見られる基本的な行動の習慣づけが、幼少期から現代日本人において失われているからではないか、と思う。学校・塾・家庭を含めて、全体的にそういったことへの指導力が落ちていることも言えるだろう。

上記12項目がきちんと出来る人間であれば、はっきり言って勉強が出来ようが苦手であろうが、成績が高かろうが低かろうが、人間として他者から好かれ、尊敬を集めて、その人自身が仕事を引き寄せる人物になるはずなのだ。

つまり、12項目はその人自身が幸せになるための知恵であることに他ならず、こういったことに対して「細かい」とか「そこまでしなくても」と感じてしまう鈍い人がいたならば、その時点でその人に見込みは無いと言えてしまう。

12項目を書き出してみると、人間性を高める習慣づけの中に、学力や成績を上げていくためのノウハウがふんだんに盛られていることが分かるし、人間性の向上が伴わないところに勉強だけを押し込んでも無意味だということが痛感できる。

そして、この12項目により何が養われるかといったら「気づく力」。このキーワードは欠かせないだろう。入退室の時に、他の生徒の靴を蹴って乱していることに気づけるかどうか、神尾塾で毎回の連絡ファイルを見て、そこに記された言葉や課題の進め方を見て、その意図を気づけるかどうか。定期テストの前に授業間隔を敢えて空けている時、そこで「学校のワークをきちんとやれよ」という無言のメッセージを言われなくても気づくことが出来ているだろうか。

ただ受け身のロボットになってするのではなく、一つひとつ考えて、気づきながら行動して欲しい。これが、神尾塾の願いだ。

気づく力さえ高まれば、人生は自由自在なはずだ。