人間の劣化

ノートにタイトル・名前を書きましょう、というお知らせを書いた。ノートを使用する生徒には使用開始時に、「英語1」「英語2」のようにタイトルと冊数の番号、氏名を書くように指示している。冊数順を書くことで、ノート練習をしている生徒の達成感にもつながり、また使用済みノートと現在使用しているノートとの区別もつきやすくなるからだ。

ただ近年、2冊目以降にタイトル・名前を書かない生徒の割合がまた増えているような気がするのだ。「書きなさい」と言われれば素直に書く。しかし言われなければ書かない。

指示されれば動くけれども指示されなければ自分からは動かない。やる気がないとかそういう問題ではなく、単に気づかない。そういう傾向が増えているように感じるのは神尾塾だけの傾向なのだろうかどうだろうか。

恐らく、自分が答えを出す前に誰かが答えを出してくれる、だから自分は考えて行動する必要がない。という状況は、勉強に限らず生活全般のあらゆる状況が時代と共に整いつつある中で、道具が便利になれば人間が劣化する、という残念な反比例の関係を如実に表しているのだろう。

昨年の秋、私の身内に不幸があった時、病院もそうだけれども葬儀も、その後のお香典の返礼であっても、業者に申込さえ済ませてしまえばこちらが変な気を利かせなくても、業者の方でスムーズに事を進めてくれる。こちらがあれこれ気を揉んだりあくせく考えたりする必要がないのだ。金銭の支払いとともに自分の思考も放棄している、とも言える。

何も考えなくても、ある程度何とかなってしまうのが現代で、当然これが小・中・高校生の学生の次元にも起きているから、指示されなくても自分で考えて行動する生徒が減っていくのは必然といえば必然なのだろう。

以前、合格報告の出来ない中学生についての記事を書いたが、「報告しなさい」と言われなければ報告できないのか。そういう事例は今後ますます増えていくのだろう。


事理を説くは、もと人をして了解せしめんと欲すればなり。故に我れは宜しくまずこれを略説し、かれをして思うてこれを得しむべし。然らずして、我れこれを詳悉(しょうしつ)するに過ぎなば、すなわちかれ思いを致さず。却って深意を得ざらん。

(訳)物事の道理を説明するのは、もとより人にその道理をよく了解させようとするためである。だから、自分はまずその事について大体を説明し、相手の人に自身で考えをめぐらして、会得させるようにするがよい。そうではなくて自分があまり悉(ことごと)く説明し過ぎると、相手の人は十分に考えもしないことになる。これではその深い意味を会得出来ないであろう。

※「言志四録(四) ~言志耋録(てつろく)第166章』 佐藤一斎・著、川上正光・全訳注、講談社学術文庫より

整いすぎた環境ほど人間は劣化が進む。自分で考えないと今日の食べる物もおぼつかないような苦境にあったほうが人間そのものは進化出来るの「かも」しれない。