一家繁栄の礎

一昨日、生徒から自宅における霊的現象についての質問を受けたのだが、生徒があまり腑に落ちていないようだったので、念押しの意味で改めてここに記してみる。自宅に霊がいるのではないか、飼い犬がそれに向かって吠えたり、家族がそれを目にする時が稀にあるという質問。

階段から落ちたとか現場で転びやすいとか、特に困った危害を加えられることが無い限り、そのまま静観すれば良いのではないかと私は答えた。もし、気になるのであれば、現場に米酒塩水の四点セットをお盆に載せて供え物とし、時間をかけて供養。

また、それ以前の問題として、自宅にご先祖様を小規模でもよいから祀(まつ)り、自分に出来る範囲での供養を続けることで、ご先祖様が自動的にバリアを張ってくださるよ、という話。

何点か詳細に書いてみる。まず、先祖について。
核家族化が進み、仏壇を持たない家庭がほとんどになった。しかし、家の長男次男に関わらず、先祖を祀るための依り代(よりしろ)は全ての世帯が持つべきである。そして、そこが一家の精神的中心となり、家庭安寧の元になると私は考える。また、親が毎朝手を合わせていれば、子供は勝手にそれを真似する。畏(おそ)れ多いものに対する敬意とか、慈悲心の根本は、こういうところで涵養(かんよう)されるものであると思う。食べ物も、一旦お供えしてからそのお下がりとして頂けば、まさに「いただきます」と、食への感謝が芽生えるのである。

次にお祓(はら)いについて。
霊的現象が起こると、神主やお坊さん、霊能者を呼んだり、お札を貼ってまじないをかけようとする。しかし、私はこれを否定する。供養の根本は自分でするのが本来のことだ。誰かに祓ってもらう、お札を貼れば済むだろう、というコンビニエンス(安易)な考え方は捨てたほうがいい。

そもそも、その霊的存在も、ひとつの心あるスピリットなのだ。例えば、自分が好意を持った女の子がいる。その子に自分のことを興味を持って欲しくて、自分の姿を見せようとする。すると、ただそれだけで女の子はハタキではたきながら、塩を自分に浴びせかけてきた。いきなりそんなことをされたら自分はどう思うか。まだ話もしていないのに、いきなり邪魔扱いされて追い払われて。これでは納得がいかず、場合によっては自分はストーカーに走るかもしれない。

霊的現象とは、大概がこのようなものである。姿が見えないだけの相手に対して、もっと思いやりを持つべきだ。だから、神主やお坊さんを呼んできて、急激にそういう現象をなくしてしまおうという考え方は、あまりにエゴである。

三点目として、
除霊します、悪霊退治します的な商売人もいるが、それは所詮商売でしかない。大体が自分の霊的垢を相談者になすりつけて自分の霊的バリアの中に取り込もうとしているだけなので、一時効果があったような気がしても、それは今後その商売人の餌食になるということである。

鴻徳神社でも、正月に古札のお焚(た)き上げをしているが、よくもまあなこんな気味の悪いものを…と、趣味の悪い呪術系のお札を持ってくる人が毎年たくさんいる。だから、そういう目に見えない世界で商売している人たちの手中にはまらずに、自分たち当事者で出来る真心を、その霊的対象に捧げればそれで良いのである。それでも尚どうしても気分が優れない時は、その時こそ専門職に(真偽を見極めた上で)声をかければ良いのである。

最後に先祖について。
先祖というと、遠い世界の抽象的な事物のように感じるかもしれないが、私たちにとって最も身近な先祖は生きた親、そして祖父母である。だから、親の顔をみたら、この人が先祖なんだなと思えば良い。逆に最も身近な子孫は息子、娘である。

親が子供の幸せを願うように、子供も親に幸せになってもらいたいと願っている。その連鎖が「先祖を想う」ということだ。だから、自分が親を想う気持ち。その一部でいいから、その真心を先祖に捧げて欲しい。一家の中に先祖が立ち寄れる依り代(よりしろ)を作り、手を合わせ、故人の命日など節目節目にお菓子や果物でもお供えすれば良い。その真心が、異界で暮らす先祖に伝わり、先祖自身も私たち子孫をより強く見守って下さるというものだ。

一家安寧、一家繁栄の礎(いしずえ)は、ここにあろうと思う。