学問即生活、生活即学問

「伊集院静の流儀」という本を買って、グラビアをめくりながら『いやぁ~伊集院静カッコいいなー。こういうビジュアルの年の重ね方をしたいなー』と生徒に話しながら『ところで伊集院光は知ってる?』と生徒に尋ねたら『知らない』という答えが返ってきた。何人かの生徒に尋ねたら同様の答えが返ってきて、正直驚いた。伊集院静はまだしも、別に伊集院光を知らなくても、そんなことどうでもよいことだが、伊集院光くらい知っておいてくれよと思ったのが本音だ。

科目に関わらず、多少なりとも学問に意欲的な生徒は、比較的雑学に強い気がする。よく大人が子供にぶつける正論としては「予習復習をきちんとしなさい」という言葉が多いと思うが、私はこの言葉は好きではない。近視眼的に小手先の狭い勉強で子供を縛るよりも、幼い頃から、情報と経験という外界からの刺激をシャワーのように子供に浴びせ続ける方が、その子の中に智慧(ちえ)の種をまくことになり、種が増えれば点が線、線が面となってその子をしなやかに頭のやわらかい子に育てていってくれるのだと私は考えている。そういう子が学問をすると、学問と日常生活が融和していって、学問即生活、生活即学問の状態になっていく。好奇心も豊かに育まれると思う。自然、節目節目の進路決定もスムーズであると思う。

映画もテレビも見ればよいし、ラジオも聴くといい。美術展に行くのもいいし、スポーツも楽器も釣りも、あらゆる遊びもしておけばいい。楽しいことも、危なく痛い想いも全てがその子の成長の肥やしになるのは間違いない。

会話をしていて「この人モノをよく知ってるな、面白いな、魅力あるな」と相手に思わせるような、間口があり、かつ底の深い、大きな人物に一人ひとり成熟していってもらいたいのである。