データ教育の次の時代

小学校では2020年度から、中学校では2021年度から新しい学習指導要領に基づく教科書が開始され、算数・数学では「データの活用」に関する単元が強化されている。

また、大学入試改革に連動して教科書や試験問題のボリュームも増え、大量のデータの中から自分に必要な情報を見出して分析・活用するという方向性が明確になっている。

学年上位3分の1の生徒はそれに楽しく対応できるだろうが、その他3分の2はただ溺れるだろうね、というのは私の意見。

さて、今回の新型コロナウイルス感染症に対する私たちの向き合い方は、まさにこの「データ」の時代に必要な素養をまざまざと試されることになった。

100人いれば100通りの考え方がある。左の人はそれが正しいと言うが、右の人は「デマだ」と言う。どちらが正しいかは分からない。分からない答えを求めて模索し続ける力、それこそが新学習指導要領で身につけさせようとしている力そのものだろう。

その意味において、一連のコロナ騒動は、今の時代に起こるべくして起きている極めてタイムリーな課題である。

しかし、それにしても毎日ウェブサイト、各種SNSなどから情報収集をするのも、個人的には疲れた。自分なりの真贋を見抜いていかないといけないし、少しでもヘイト(憎悪)のニュアンスが含まれる情報は私は無視するようにしている。

オカルトの話で「審神者(さにわ)」というものがある。降りてきた霊が正統なものか、邪悪なものかを見分ける「審神者」の能力を身につけなければ霊視は出来ない、というのだ。

実は、データ教育の次は「審神者」の能力を問われる時代になるだろうと私は考えている。といっても霊視とかオカルトの話ではない。

結局のところ、100も1000もデータを増やせば真実が見える訳ではなく、食べ物も手あたり次第たくさん食べれば栄養が確保できる訳ではない。どの果物が栄養価が高いか、どういった組み合わせで食べるか、そのバランスと適量を見る目が養われていなければ、量だけ食べても体には有害でしかないのだ。

それと同じことで、どれだけデータ教育を施したところで、データを巧みに操る小利口な口先人間を増殖させるだけで、決して人類の成長に資する訳でもないだろう。

ICT、データの活用というのはあくまで過渡期であって、その先にある「人間の根本ってやっぱり何だったっけ」という修身的な原点(今は古臭く、カビが生えた遺物と思われることが多い)に戻っていくのではないか、と私は思っている。