王陽明・伝習録~児童教育の大意~

一昨日、中学社会のテスト対策で「朱子学」と「陽明学」の違いについての話題が出た。結論から言うと、「朱子学が理論的」「陽明学が行動的」
ちなみに「陽明」は中国・明代の儒学者「王陽明」という人物名で、その王陽明の教えをまとめたのが『伝習録』である。

今日は『王陽明・伝習録』(溝口雄三・訳、中公クラシックス)から抜粋してみる。

(抜粋ここから)

『伝習録』中巻~訓蒙(児童教育)の大意を示す~

◎古(いにしえ)に教えといえば、人倫を教えることであったが、後世、記誦・修辞の学が起こってより、先王の教えは亡びた。今日、児童を教えるには、まさに、孝悌・忠信・礼義・廉恥をもっぱらにすべきで、それを育成涵養する方法としては、彼らを詩歌に導いてその志意(スピリット)を発露させ、礼を習わせてその威儀を正させ、読書をすすめてその知性を啓発するのがよい。(P.293)

◎いま人は、つねづね、詩歌・礼儀は現代の要請に応えるものでないとしているが、これはすべて末世の鄙俗(ひぞく)な風習に染まったものの見解であって、かれらには到底、古人が教えを立てた本意など理解できるものではない。(P.294)

◎礼を習わせるのは、単にその威儀を正すことだけにとどまらず、その進退応接の動作によって血液の循環を活発にし、また拝礼の動作の伸びかがみによっては筋骨を丈夫にすることにもつながる。さらに、読書をすすめるのも、単に知性を啓発するだけにはとどまらない。それは書に沈潜することによって心を持存させ、声をはりあげて朗誦することによってその心情を外に明らかにさせることにもつながるのである。

これらはすべて、かれらの志意にしたがって導き、その性情を正しくのばし、鄙(いや)しい考えや低俗な感情を消散させ、荒けずりで粗野な態度を無言のうちに感化させるもので、かくして、かれらは日に日に礼儀になじんで、それに抵抗を感じなくなり、「中和」の状態を獲得してしかもそれを意識しないようになる。これこそが先王立教の深微なる本旨なのである。近世の童蒙(こども)の訓育を見ると、毎日ただ、句読のきりかたや科挙の模擬作文を課し、いたずらに動作をしばるばかりで礼儀に導くことを知らず、知識の聡明を求めるばかりで、善を心に養うことを知らない。(P.295)

◎およそ読書を教えるには、いたずらに多読させるのでなく、精読を貴ばせる。生徒の資質をよく見、二百字を覚える力がある者には、百字を教えるにとどめる。精神力量にいつも余裕があるようにすれば、児童も厭(いや)がったり難儀に思うことがないだけでなく、自分で覚える喜びを味わうことになる。(P.298)

出典:『王陽明・伝習録』(溝口雄三・訳、中公クラシックス)

(抜粋ここまで)

「近世のこどもの訓育を見ると、知識の聡明を求めるばかりで、善を心に養うことを知らない

これは、まさに現代における教育の課題そのものではないか。