小學

戒めとなる言葉や先覚者の言行を、数多くの古典や歴史から精選した書が『小學(しょうがく)』。編さんしたのは中国南宋の儒学者である朱子(日本では平安後期から鎌倉初期にかけての人物)。朱子学が幕府の官学とされた江戸時代には『大学』と共に『小學』が広く必読の書とされていた。


【1】孟子曰く、人の道たる、食に飽き衣を暖にし、逸居(いっきょ)して教ふる無くんば、則(すなわ)ち禽獣(きんじゅう)に近し。
(訳)『孟子』にいう。元来、人間の自然のなりゆきとして、飽きるまで食べ、暖かな衣服を着、安逸(あんいつ)に生活して、少しも教育されることがなかったならば、禽獣の生活に近くなってしまうものである。

食欲を追求しすぎると糖尿病や痛風にかかったり、ロクなことがない。ほどほどで止めておくのが大事ということと、何でもやりたい放題にしていたらその辺の犬や猫と同じ、人間ではなくなるから教育(しつけを含めて)が大切という話。


【2】益する者三友、損する者三友。直を友とし、諒(りょう)を友とし、多聞を友とすれば、益す。便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とすれば、損す。
(訳)孔子言う。交わって益を得る三種類の友があり、交わって損を受ける三種類の友がある。直言して隠すことをしない者を友とすれば、己の過ちを聞くことができる。誠実にして表裏のない者を友とすれば、己もその影響で誠へ進む。博学多識を友とすれば、己の知識が広まる。この三者は有益な友である。体裁を飾って率直でない者を友とすれば、己の過ちを聞くことができない。表面だけを善くして誠実でない者を友とすれば、己の誠を失うに至る。口先が上手で、実意の無い者を友とすると、己を進歩させられない。この三者を友にすれば損になる。

友達次第で自分自身が変わる、というところか。


【3】賢者は狎(な)れて而(しか)も之(これ)を敬し、畏(おそ)れて而も之を愛し、愛して其の悪しきを知り、憎んで其の善きを知る。
(訳)賢者はくつろぎうちとけていても、恭敬(きょうけい)の心を失うことなく、畏敬しても、これを敬遠することはない。愛するものにも、その過ちや欠点を認め、憎む者にも、その長所や善い行いを認める。このような広く公平な心は、身をつつしむ所から生じてくる。

どのような場面でも無礼講ということはなく、一定の礼儀は常に保つべきだ。しかし同時に相手に対してビビり過ぎるのも駄目だ、と。この辺りは先ほどの食欲の話もそうだがちょうどよい中間地点、バランスの取れた「中庸(ちゅうよう)」のことを説いている。好きな人にも、駄目なところは駄目、嫌いな人にも、良いところは良いと、是々非々の姿勢でいようと言っている。


【4】直(なお)うして有する勿(な)かれ。
(訳)人の過ちや疑問を正してやっても、自分にその聡明さがあるという態度を示してはならない。

これ、意外と見落としがちだ。相手に指摘をすると、つい自分が上から目線になってしまう。相手に注意をする時は、あくまで自分が相手と同等に同じ目線で指摘をする、いざとなれば指摘者自身が間違いを犯していないだろうか、と自分を見つめなおす謙虚さが必要、と。


【5】君子に九思(きゅうし)有り。視は明(めい)を思ひ、聽(てい)は聰(そう)を思ひ、色は温を思ひ、貌(ぼう)は恭(きょう)を思ひ、言(げん)は忠を思ひ、事は敬を思ひ、疑(うたがい)には問を思ひ、忿(いかり)には難を思ひ、得(う)るを見ては義を思ふ。
(訳)君子には、身の行いをなすに当たり、特に思いをいたして念願することが九つある。一つは、物を見る場合に、誤りなく明らかに見たいと考えることである。二つは、物を聞く場合に、聡(さと)く明瞭に聞き分けたいと念願することである。三つは、自分の顔色容貌(ようぼう)は常に温雅であるように心掛けることであり、四つは、自分の態度は常にうやうやしく慎みのあるように心掛けることである。次いで五つには、自分の言葉は心の誠から出すようにと心掛ける。六つには、事を執り行う場合には、過ちなく執り行うように心掛ける。七つには、疑問に突き当たった場合には、下問(かもん)を恥じず、すべての人に尋ね問うように心掛ける。八つには、忿怒(ふんぬ)の情の起こった場合には、一時の怒りのために、後難(こうなん)をいたしはせぬかと、その点に思いをいたす。九つには、利得に直面した場合には、それを得ることが正しい道理にかなっているか否かについて思いをいたすのである。

神尾塾の指導で心がけていることの一つに「質問をする」がある。どうしても分からなければ、すぐに調べる、または質問をする。「質問をしなさいよ」と言われて質問をするのではなく、「自発的に質問をする力を養うこと」も人間生活上大切なことだと思っている。


【6】仁人(じんじん)は、其(そ)の誼(ぎ)を正しうし、其の利を謀(はか)らず。其の道を明らかにし、其の功を計らず。
(訳)仁人というものは、事に当たって、その事の正義か否かのみを重んじ、その事によって得られる利益をねらいとはしない。その事の道義を明らかにして、その成果の効用を図らない。

商売をして生きていくためには利益を生み出さねばならないけれども、同時に大前提では「正しいか否か」の価値観が確立しているべきだ。幕末から昭和にかけての実業家、渋沢栄一(現在の東京ガス、王子製紙、東急電鉄、太平洋セメント、帝国ホテル、京阪電鉄、キリンビールなどの設立に携わる)は大正5年に「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」という道徳経済合一説を発表している。


【7】膽(たん)は大ならんを欲して、心は小ならんを欲す。智は圓(えん)ならんを欲して、行いは方(ほう)ならんを欲す。
(訳)胆は大きく、心は細かく、智は円転して臨機応変に働き、行いは方正で規律正しいことが望ましい。

気持ちはどっしりと構えて、それでいて心は細やかに。頭の働きは柔軟で、行動は礼儀正しく、自律(自分で自分を正す)ができていることが大切、と。


【8】人至愚(しぐ)と雖(いえど)も、人を責むる則(すなわ)ち明らかに、聰明(そうめい)有りと雖も、己(おのれ)を恕(じょ)する則ち昏(くら)し。爾(なんじ)曹(ともがら)但(ただ)常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心もて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患(うれ)へず。
(訳)愚かな者でも、人の非を責めるときには、明敏に人の責めるべき非を責めるものだ。聡明な者でも、自分の非を許す場合には、暗愚に自分の許すべきでない非までも許してしまうものだ。そこでお前たちは、ただ常に人の非を責める心で自分の非を責め、自分の非を許す心で人の非を許すように心がければ、聖賢になれない心配はないのである。

どんな人間でも、人の批判は容易にできる。人の悪口を言うのを楽しむ、ということも同じだろう。誰でも自分に甘く、他人に対して厳しくなりがちだから、自分を甘やかす気持ちで他人を許し、他人をとがめる厳しさで自分自身を厳しく戒めることが大切だと言っている。


【9】凡(およ)そ語は必ず忠信、凡そ行(おこなひ)は必ず篤敬(とくけい)、飲食は必ず慎節(しんせつ)、字畫(じかく)は必ず楷正(かいせい)、容貌(ようぼう)は必ず端荘(たんそう)、衣冠(いかん)は必ず粛整(しゅくせい)、歩履(ほり)は必ず安詳(あんしょう)、居處(きょしょ)は必ず正静(せいせい)。事を作(な)すに必ず始を謀(はか)り、言を出(いだ)すに必ず行を顧(かえり)み、然諾(ぜんだく)は必ず重く應(おう)じ、善を見ては己(おの)れ出だすが如く、悪を見ては己れ病むが如し。
(訳)すべて、言う言葉にまことがあり、行いは手厚くうやうやしくする。飲食は、必ず慎み節制する。文字は、必ず正しく粗相(そそう)の無いよう書く。容貌は、必ず端正にかつ荘重(そうちょう)を保つ。衣冠は必ず慎み整えて着用する。歩き方は必ず静かに気を付けて足をはこぶ。家にくつろいでいる時は、必ず正しい姿勢で静かにしている。すべて事を行おうとする時には、必ず始めによく考える。発言する時は、必ず自分の行為を顧みてから言う。人と同意し引き受けたことは、必ず重んじて、約束を守り信頼にこたえるよう努める。人の善行あるを見る時は、自分が行ったようによろこび、人の悪行あるを見る時は、自分の悪いくせで、そうしているように残念に思う。

かなり細かく書かれているが、ここで注目すべきは「発言する時は、必ず自分の行為を顧みてから言う」だろう。自分のスキャンダルを棚に上げて、他人の糾弾に終始しているような政治家やテレビのコメンテーターがいるが、実に恥ずかしいものだ。【9】は確かに細かすぎるくらいではあるが、こういった大前提を幼少期から刷り込んでおけば、社会人になってからの行動も多少はマシになるとは思う。


【10】今日一事を記し、明日一事を記し、久しければ則(すなわ)ち自然に貫穿(かんせん)す。今日一理を辨(べん)じ、明日一理を辨じ、久しければ則ち自然に浹洽(そうこう)す。今日一(いつ)の難事を行ひ、明日一の難事を行ひ、久しければ則ち自然に堅固(けんご)なり。
(訳)今日、一事を記憶し、明日、一事を記憶するという様に、久しく知識を蓄積してゆくと、自然に一切の事物が脈絡(みゃくらく)を有し、一貫して理会(りかい)されるようになる。今日、一理を弁別し、明日、一理を弁別するという様に、理を弁別する工夫を積み重ねてゆくと、自然に道理が心にしみ入って、心と一つになって来る。今日、一難事を行い、明日、一難事を行うという様に、難事の実践を重ね続けてゆくと、自然に意志が堅固になって来る。

この章は気に入った。一歩一歩の積み重ねが大切だというだけでなく、その積み重ねの先に脳の回路が網の目のように繋がっていくように、やがてそれらが自然の道理(真理)と一体化していくということだ。あと、「難事の実践を重ね続けてゆくと、自然に意志が堅固になって来る」は例えば塾でいえば毎回の授業で宿題をきちんと提出することは社会人になってから仕事の納期を守ることにもつながるし、1問も漏らさず確認テストの準備を重ねていくことも、実はその苦行(?)を続けることで負けない・逃げない強い精神力を養うことにも繋がる。

さて。
そんなこんなで、まず10編を取り上げてみたが、あと3編。長くなるので以下は現代語訳のみで。


【11】心を治め己れを修めるには、先ずもって身に切実な飲食と男女の欲望、すなわち食欲と色欲の二つに対処することが肝要といえる。昔から聖賢も、その対処から心を治め身を修める実践に工夫を重ねていったのであり、決してゆるがせにしてよいことではない。

「○倫」に見られる男女のトラブル、また近年「梅毒」が増加しているというニュースを見るにつけ、何でもしたい放題では駄目なのだ、【11】のように自分を治める訓練(自己修養という)が特に子どもの年齢時には欠かせないのだ、ということを痛感する。今も昔も「睡眠・食欲・性欲」という三大欲との戦いから人間は抜けることが出来ない。

※【閲覧注意】梅毒に関するレポート。塾通信に相応しいリンク先ではないかもしれないが、現実問題であるので貼っておきます。
https://news.yahoo.co.jp/feature/607


【12】視覚の戒めに言う。心は本来、虚で、つまり何でも受け容れるもので、外からの刺激に応じて動き、変化して固定した跡形を残さない。放任しておけば、あらゆる方向に動いて行ってしまうので、必ず要領よく操守する必要がある。視覚における克己復礼は、心を操守する工夫の法則となるのである。もし視において明を失い、不正の外物ばかり受け入れてしまうと、内なる心は誤った方向に動かざるを得ない。外物に対する第一の関門である視において制約を加えて、内なる心を安定させる。この視において「己れに克ち、礼に復する」よう努めることは、やがて心の誠を達成する第一条件となる。

聴覚の戒めに言う。本来人間は、天性に基づいて正しい道を歩むものであるが、外からの刺激に誘われると、その知つまり判断が誤ってしまう。すぐれた先覚である聖賢は、自分の在るべき所を知って、心の安定を得、更に邪悪を防いで心の誠を保持するのである。だから礼に外れたことは聴いてはならないのである。

例えばYoutubeで面白いと爆発的に拡散されている映像が下品な言葉を使っているものであったり、そういうものをつい興味本位で見てしまいがちだが、目も耳も自由であるからこそ、あえてそういう品性の悪いものは見ない、聞かない、という行動の制限を自分に課していくことが大切だと言っている。「波長の法則」というものがあって、下品なものに接すれば自分も下品に感染するし、波長の法則により更に品の悪いものを自分が引き寄せることになる(引き寄せの法則、類は友を呼ぶの法則、とも言う)。

これも程度問題ではあるが、悪を遠ざけ善を引き寄せるものに近づけるよう自分を仕向けていくことが大切だろう。


【13】『論語』『孟子』を読み込むには、熟読して内容を玩味し、聖人の言葉を、自分自身のことと切実に受けとめなければならない。ただ単に、聖人がその時その場でした訓話に過ぎず、自分には関係ないものと看做してはならない。もしこの両書をよく読み込んで、その内容を自分自身のこととして切実に会得して行けば、生涯にわたって得る所が極めて多大であろう。

古典が単に古典としてだけでなく、現代に生き続けている理由はここにある。約2,600年前の孔子が発した言葉が現代の人々の心に深く染み入ってくるのは、真理は不変であることを示している。人間の本質はいつの時代でも変わらない。

この『小學』もそうであるし、夏の作文講座で扱った『代表的日本人』をはじめとする古典も「我が事(わがごと)」として受け止め、現代の情勢に置き換えて読みたいのである。

参考文献:「『小學』を読む」(荒井桂・著、致知出版社)

この記事を書いた人

kamiojuku